あのフランスでの日々(真面目な勉強以外のことはしなかった)から、帰国して今まで、数字にするとかなりの「時間」が経っているわけだが、ぼくはそういう数的時間の実在性は認めない。事象を「整理」しておくための人為的な碁盤目だと思うから。今ぼくが言いたいのは時間の反省ではない。ぼくの殆ど自分に籠もった真摯な精神的追究(その成果にぼくはあまりにも謙虚であり過ぎる‐自分にはそれでいい‐のだが、ソルボンヌの博士号を立派な成績で取得した)、地道にそれ以外のことはしなかったぼくが、どうして今、個人的な勉学生活の基礎である身体機能を破壊されて、まともな本来の活動が出来なくなったばかりか、それまで努力して蓄積してきたものまで支えられなくなった状態で、あかの他人の群れからまで、無能で何にも価値がない人間だと、それまでの人間としての重み・尊厳を否定されて、もともとおまえはそれだけの程度の人間だと、同情心のかけらもなく日常的に嬉々として嘲弄されなければならないというのは、どういうことなのか。世界が悪魔にけしかけられた状態だとしか言いようがない。先生と親交があった大画家ルオーの家族にまで、ぼくの真摯な純粋さのゆえに特別に受け入れられ「人間」として厚遇された、そういう生来の本質で生きてきたこのぼくが! ぼくは自分の純粋真摯な志のゆえに「天」から導かれていると感じてきた(不思議なめぐり合わせが仏国でもあまりに多かった)が、今、その「裏」が正体を露わにしてきている。一言で言うと、天使に似せた悪魔だったのだ! どうもおかしいと時々感じることはあったが、その都度ぼくは、それまで導いてきてくれていると感じてきた天を敢えて信じてきた。ところが、少なくとも、その導きが事実だとしても、同時に、おそるべき世俗力とその世界観の霊的集合体であるような別の力が、ぼくを導く天使力との間で、ぼくをめぐって綱引きをしていたように、今思っている。ジャンヌ・ダルクと似た悲劇を今ぼくは振り返って自分に感じているのだ。ぼくの経験にもとづく「創造主」観では、創造主はぼくの純粋な本質を伸ばしながら、一方で反生産的な状況も与え、ぼくをそれこそ「全知」の力で巧妙に誘導して結局悪魔世界に売り渡し、ぼくのかけがえのない価値まで破壊させる、霊的裏世界の操り手でもあるのだ。そういう魔(魔物)の手に委ねられていたらしいという、フランスに居た時とは逆の観方を、今、在仏時代にまで一気に遡って、これまでのぼくの道程全体について、その霊的裏側を観る思いで、ぼくはしているところなのだ。