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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

退職後、「個人」や「退職者の会」で都内を巡ることが今まで多かったが、東京は高低差があることに気がつく。埼玉県の南東部に住んでいると山がなく高低差がほとんどない、埼玉県で山と言えば秩父地域に行かないとない。何で、都会で坂道が多いんだろうと不思議であった。
そうしたことに着目したのが本講座の講師である「東京スリバチ学会」会長の皆川典久 氏である。地域の高低差については自然地理学の分野なのだろうが、その地域の人の営みの歴史を加え考えて街歩きをし考察するジャンルを築いた。
本講座の内容と、インターネットで調べたことをまとめて、東京のスリバチの楽しさを味わいたいと思います。

1.東京の凸凹地形に着目
〇この地域(講座場所は万世橋)の凸凹地形は(秋葉原・万世橋付近)
秋葉原付近は、標高4m位で万世橋から南・北・東側はさほど高低差はないが西側にある神田明神は微高地にある。東京は、扇状地上の武蔵野台地上にある。武蔵野台地から伸びるいくつかの舌状台地の一つである本郷台地の端に万世橋がある。東京の神社の多くが神田明神と同じような台地端にある。
徳川家康は入府(1590年)後に、このような地形を利用してきた。江戸初期の江戸は、日比谷などは入江で、湿地帯が多く海水が入り込み飲料、耕作地に適さない土地であった。江戸初期まで存在していた神田山を削り湿地帯や入江を埋め立てた。

徳川期最初の水路工事の様子。江戸前島に道三堀(現一部日本橋川、一部埋め立て)が通り、関東最大の製塩地・行徳から、塩が江戸に輸送された(『江戸の川・東京の川』鈴木理生著より転載)

〇お茶の水渓谷の必要性
お茶の水駅や聖橋から見ると、
神田川が深い谷となっているが、これは自然になったものではなく、人工的に造成されたものである。これも家康の入府に関係するもので、江戸城下の整備で、河川のネットワークにより江戸城への物資を運ぶ水路の造成である。飯田橋付近から秋葉原付近までの神田川は仙台堀と呼ばれた伊達藩による大規模な土木工事によるもので、開削工事は、道三堀と呼ばれた、これにより江戸への生活物資、建築資材の輸送が江戸城直下まで可能となった。現在の東京があるのは、この開削工事のおかげだろうが、道三堀は明治43年に埋め立てられ役目を終えた。

*道三堀は、河岸に幕府の侍医であった曲直瀬家(2代目道三)の屋敷があったことから呼ばれた。
*なぜ?仙台藩が工事(仙台堀)に関わったか、仙台藩は、当時、仙台藩は軍事的にも強大で家康は力をそぐために命じたとも言われています。
〇平川や日比谷入江とは
東京で「平川」と言われる河川はありません。皇居にある「平川門」の名前だけが残っているが、かつてはこの辺に旧平川の流路と上・下平川村があったことから名付けられた。旧平川は日比谷入江に流れ込む川だあったが、江戸城築城と日比谷入江の埋め立てにより流路を変え道三堀と繋がりました。現在の神田川・日本橋川は人工的に造られた河川でした。
徳川家康が入府する前は、江戸城の東側はほとんど海だった。江戸時代、日比谷・有楽町付近は陸地ではなく浅瀬の海が広がっており、日比谷という地名も、ノリやカキを収穫するための道具「篊(ひび)」に由来するとも言われている。日比谷入江を挟んで江戸城の対岸に位置したのが、半島状の微高地の「江戸前島」で日本橋から銀座にあたるエリアである。


2.スリバチ地形とは何か
東京の「山の手」(武蔵野台地の東縁以西の四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたり)は、起伏に富み坂が多く坂名が付くほどである。東京は、青梅からの扇状地でその上に関東ローム層が堆積し、それが洪積台地の東端に位置する東京の基盤をなす武蔵野台地である。武蔵野台地は、西から東へ流れる川が多く、支流もあります、浸食により舌状台地や樹枝状谷が形成された、また、東京は湧水(*1)が多くあり沈下や浸食により三方を丘に囲まれた窪地が見られた。窪地やU字谷が講師の関心を寄せた「スリバチ」である。東京の地名には「谷」の付く名前が多くある、四ツ谷、市ヶ谷、阿佐ヶ谷、千駄ヶ谷、幡ヶ谷、茗荷谷、雑司ヶ谷、雪谷、祖師ヶ谷など。
*1ー東京都は、湧水に対し、保護と回復を図るため57ヶ所を「東京の名湧水」を発表しました。

薬研坂ー向かい合う坂の形状が薬を磨り潰す薬研(スリバチ)の形に似ているため付けられた名前。

3.江戸・東京の都市形成 
よく古地図で街歩きの企画があるが、東京の町は江戸の町を下敷きにしているので、こうした企画が人気があるのだろう。東京の主要な道路や敷地割は江戸期の町の骨格を踏襲しているし、神社や仏閣などの位置も基本的には変わっていない。江戸の町は、地形の特徴を活かしながら築かれた計画的な町であった。
徳川家康のすごい所は、まちづくりに長けていたところである
◇江戸城を中心とした自然地形を活かした町割りで、武士と町人を分け、造成してきた。しいては江戸の防備にもつながった。       
     *日比谷入江の埋め立て
◇江戸城への物資供給網の整備で堀や運河の造成
          *道三堀と小名木川堀
◇飲料の確保のため上水道の整備
     *神田上水などの開削
千鳥ヶ淵、溜池は、江戸の飲み水が塩水のため飲料水確保のため千鳥ヶ淵は、城の周りの川を堰き止め貯水池とし、溜池もその名のとおり水を溜めるために造った。

入江の名残り・日比谷濠。右側の道路沿いのビル群は、昔の景観を残すため、旧建築基準法の31mの軒高ラインで統一されている。

4.スリバチを活かした江戸の庭園文化 
江戸は武家を中心とした豪華絢爛な庭園文化が花開いた時代だった。明治期に入ると、「上知令(もしくは上地令)」により武家地が解体され大名は国元に引き上げ、6割以上を占めた武家地は空き地となり、大名庭園も荒廃した。そこで明治政府は、荒廃した庭園を積極的活用のため農地化を推進した。その後、皇室・皇族・華族・政府高官・実業家といった人らに居住地として与えた。東京の庭園は、武蔵野台地を母体として本郷台地など舌状台地や、谷筋、低地部分で構成される庭園を残してきた。その多くが眺望を重視して台地の突端部分に立地しており高台部分に邸宅敷地があり、低地部分に豊富な湧水による自然湖沼が存在している。

街歩きで起伏があると、思わず何で!こんな所に坂道がと思って歩いていたが、昔の地形や生活に思いをはせ街歩きを楽しみたい。


【参考資料】
・講座配布資料                                     
・日本庭園学会誌14・15 2006 東京を中心とした近代の日本庭園 粟野 隆
・ウイキペディア
・東京スリバチ地形入門
・大人の休日倶楽部 2023年1月号
・東京街人  

【その他のPhoto】

*「下り酒」ー江戸時代に上方で生産され、江戸へ運ばれ消費された酒のこと。

越谷市に羅漢の寺があるとインターネットで知り、越谷市蒲生駅周辺を散策、羅漢像のある報土院へ。いままで「退職者の会・日帰り散歩」で川越市・喜多院「五百羅漢」、久喜市・定福院「羅漢の寺」で羅漢像は見てきたが、越谷市の寺院に羅漢像があるのは知らなかった。報土院に入り釣鐘の隣の松木の周りに羅漢像が数十体あった。いままで訪れた二寺院の羅漢に比べると数は少ないが、それなりに面白い。酒を飲んでいる羅漢はよく見るが、寿司を食べる、パソコンに苦労している、カラオケのマイクを握る、将棋をしている羅漢など・・・悟りを開いた高僧といえども、俗世間から脱するのは大変です??。この羅漢像、お寺が置いたのか、檀家の寄贈なのか?親しみを感じる羅漢様です・・・

蒲生に一里塚があるとのことで、報土院から南に歩く。突き当りにあるのが綾瀬川である。桶川市(埼玉県)に源を発する49Kmの利根川水系の一級河川である。越谷・草加市で川幅が広がり流れが緩やかで貨物の輸送が盛んで河岸場が設けられたが大正に入り陸上・鉄道輸送が進み、役割を終えた。高度成長期には人口増加等により生活排水や工場排水により水質汚染が問題となった、1980年から15年連続で一級河川水質ランキングのワースト1位となった。近年は徐々に回復している。河川の両側が整備され越谷・草加市民の散歩コースとなっている。

「蒲生の一里塚」は、綾瀬川と出羽堀(4kmの用水路)が合流場所にあり、高さ2m、東西5.7m、南北7.8mの長方形をしている。現在の「蒲生大橋」の両側にあったが、残っているのは東側の一里塚だけである。埼玉県内の日光街道では唯一現存する一里塚となっている。(埼玉県指定史跡)

一里塚から川沿いに下った所には藤助河岸がある。河岸に小屋があったが荷の積み降ろし小屋として復元されている。小屋の前には、「藤助」の名の倉庫、藤助酒店の商家があり、この河岸場が個人の河岸場である事がわかる、説明板に高橋藤助氏が江戸時代の中頃に開設した河岸で、大正初めには輸送業を始め地の利を得て栄えたようです。その後、舟運の衰退により綾瀬川の河岸場は自然消滅しました。

綾瀬川が越谷市と草加市の市境となり、訪れた越谷市蒲生愛宕町は東武スカイツリー線では草加市の新田駅が近い駅になるが、清蔵院を訪れたく蒲生駅の方に戻る。清蔵院は、天文3年(1534)と伝えられています。山門が越谷市指定有形文化財になっています。屋根など一部改造されているようですが、棟札により寛永15年(1638)に関西の工匠による建立が確認されています。山門の欄間の龍の彫刻、虹梁(中央が弧状になった梁)の彫刻などは江戸初期に造られたと言われている。なお、山門の龍は伝説によると左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を抜け出し田畑を荒らしたことから龍を金網で囲ったといわれています。

ほぼ、3時間のコースを終了し、蒲生駅より帰路に。

 

地下鉄九段下駅からお茶の水駅で下車し古民家見学と神田明神へ。
神田明神には、数回訪れたが神田明神の隣に古民家があるのは気が付かなかった。
神田明神の隣の宮本公園に移築されたのは遠藤家旧店舗・住宅主屋「神田の家 井政(いまさ)」である。区の施設と思っていたら民間所有の古民家であった。カフェと施設の貸出で撮影やイベントに利用できる。平日は、庭までは一般公開されている。遠藤家は、鎌倉で材木商を営んでいましたが、江戸城築城のため江戸の神田鎌倉町(現・千代区内神田1)に移住。先代の遠藤氏は、神田明神の氏子総代、将門塚保存会会長として尽力した方。屋号の井政のいわれは、井筒屋政蔵の略で代々名を継いでおり、歴史ある材木商です。北山杉、屋久杉など部材には各地の良材が利用され、江戸以来の商家建築がみられ、細部の意匠も材木商ならではで、貴重な木造建築(江戸町屋)である。

神田明神に初詣と思ったが、正月の「松の内」も過ぎているのに、境内はお参りの列やら修学旅行の生徒で混みあっているので鳥居に一礼し駅へ。

◇参考資料◇
 ・画像は、配布されたパンフレットなど。
 ・朝日新聞
 ・しょうけい館では、展示物に氏名等のないもの撮影させていただいた
 ・官公庁のHPとWikipediaを参考にした