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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

数年前に越谷久伊豆神社を訪れたとき、隣に「越谷アリタキ植物園」看板を見つけたが、グループでの散歩のため訪れなかったが、今回、訪れた。
*「北越谷から越谷を巡る散歩」2015.3.13UPも参考に
北越谷駅を下車し、逆川緑道を歩き20分程で植物園に到着。


この時期、高温多湿の日本の夏の気候は人にも厳しいものですが、日陰へ動くことのできない植物にとってはさらに過酷です。なぜこの時期に行くか?と言われそうだが、NHK連続ドラマ「らんまん」の植物学者・牧野富太郎の影響もあり興味本位の散歩訪問である。
この植物園、始めアリタキとは何だろう?と思った。あとでわかった事だが、氏名の苗字をカタカナにした園名であった。この植物園は、資産家の故・有瀧平太郎氏が所有地の一部を樹木、花卉等を配植し、松花園とした。子息で植物学者・高校教員である故・有瀧龍雄氏がさらに国内外の樹木を中心に整備してきた。のちに所有していた植物園「アリタキ・アーボレータム」を故人の遺言により植物園あるいはそれに類する施設として存続することを条件に平成14年(2002)、市に遺贈され、市では故人の意志を受け継ぎ、広く市民に親しまれる植物園として整備し、「越谷アリタキ植物園」と命名、平成22年(2010)に開園した。

訪れた日は、平日で暑い日が続き入園者も少なく、緑の会(ボランティア)の方々が整備していた。季節ごとに来園すれば良いかもしれません。

多くの樹木、草花が配植されているが、植物の名を覚えられない。あらためて学者・牧野富太郎氏の偉大さを感じさせる植物園散歩であった。

帰りには久伊豆神社をお参り。この神社も見事な藤棚、池があり、この一帯が越谷市の環境保全地区に指定してるのがわかる。

<参考資料>
・GARDEN STORY
・ちいき新聞
・越谷アリタキ植物園
・ウイキペディア
・越谷市HP

野田市郷土博物館に行くのは2度目である。東武アーバンパークラインの「愛宕駅」で下車する、駅前に「懐石 あた后」という懐石料理店があった,入口に国の登録有形文化財という表示があったが、利用者以外は内部等は見学できない。店舗は、もともと昭和12年に醤油醸造家・茂木房五郎家住宅の主屋・土蔵を利用しています。

駅から10分程度の所に「野田市郷土博物館」があります。

 「地図を眺める楽しみ」のテーマに引き付けられたが、全国の鳥瞰図・観光案内図・鉄道等の沿線案内図を見られるのは、なかなか機会がない。これほど多くの展示は、野田市在住の地図コレクター・茂木浩介氏が蒐集してきた観光案内・沿線案内等の展示である。茂木氏は、5万分の1地形図の蒐集から鉄道沿線案内、旅行案内へと幅を広げ、地図を眺めているといろんな発見、好奇心を掻き立てられるのが魅力と述べている。
地図は、絵図・絵地図、精細地図と進化してきた、明治20年代に陸軍参謀本部がドイツの地図作成手法を参考に地図記号等の統一化が図られ現在の国土地理院の地形図となった。
絵地図も独自の進化を遂げて現在に至っている。絵地図に代表される「鳥瞰図」と言えば吉田初三郎氏*1が有名であるが、「大正広重」と言われ芸術性の高い鳥瞰図を残している。国土地理院の精細地図とは異なる、美術館で絵画を鑑賞するようで、まさに博物館のテーマである「地図を眺める楽しみ」そのものである。
*1吉田初三郎氏に関しては、「オンライン講座 ~鳥瞰図絵師・吉田初三郎と八戸~」2021.01.29UP及び鳥瞰図に関しては「鳥瞰図の世界」2014.9.12UPも参考にして頂きたい

博物館の隣にあるのが野田市市民会館である。市民会館というと近代的なイメージであるが、建物が国の登録有形文化財、庭園が千葉県では初の登録記念物に指定されている何とも贅沢な貸出施設である。玄関から入ろうとすると案内の方が、そこに「ハナイカダ」という珍しい花がありますと紹介してくれた。確かに私も初めて観た、名の由来は葉の中央につける花の様子が葉を筏に見立てて、花は船頭が乗っているように見えることによる。別名が多くあり、「イカダソウ」「ヨメノナミダ」などの呼び名があるが、「ヨメノナミダ」が一番合いそうである。


市民会館は、大正13年頃に建てられた、野田の醤油醸造家である茂木佐平治氏の邸宅で、昭和32年に市民会館として開館された。施設は、貸し出しもしており、空いてる部屋は見学もできる。いかに醤油醸造で財をなしたかわかる建物・庭園である、大正時代の照明、電話室等が当時の物が使われている、ガラスは当時の歪みのあるガラスであった。

見学が終わり、案内の方が愛宕駅の近くに「愛宕神社」があるので寄ってみてはとの紹介で帰りがてら立ち寄る。県道3号線と17号線がクロスする角にありました。創建が923年と古く、昔、村ができた頃に大火があったため、火の神である迦具土神を祀ることになったとの事である。隣にある西光院とはかつては神仏習合であった。

梅雨の時期、不快な暑さで多くの施設を見学できない、2ヶ所回るのが限界であった。

【その他のPhoto】

【参考資料】
・ウィキペディア
・野田市郷土博物館
・野田市市民会館
・野田市役所ホームページ

「趣味の会」特別講座を聞く機会があった。「徳川と因縁の武将たち」と題し、午前と午後に分かれて午前(A)は「徳川家康と武田信玄」、午後(B)「徳川家康と真田三代」とあり、午後のコースに参加した。開場前からエレベーター前に長い列、いままで他の講座では列をつくる事がなかった。NHKの大河ドラマからの影響や講師の平山氏が大河ドラマの時代考証を担当ということから申込が多かったのだろう。
講演内容や資料については、SNS等への掲載、紹介ができないため感想のみ。

真田というと、歴史苦手の小生にとっては「真田十勇士」を思いう浮かぶが、真田幸村と従う家臣という原型は江戸時代の軍記物に見られるようだが、「真田十勇士」という表現は明治・大正時代の書物かららしい。ということは架空の人物や誇張が多かったのでしょう。しかし、それだけ真田一族の活躍が名覚ましかったことの証明かもしれません。
信濃の一豪族だったが、戦国時代に武田氏に属し勢力をのばした、名前も武田氏から偏諱(へんき)*1として幸綱の嫡男には「信」(信綱)、次男以下には「昌」(真田昌輝・昌幸)の字を与えられたりした、親・息子3人と共に武田二十四将にも数えられた。武田家が滅亡の後は豊臣方に付くなど真田家の勢力維持に努めた。
(*1 )将軍や大名などが、家臣の功のある者や元服の際などに名の一字を与えた。

真田六文銭(六連銭)は、三途の川の渡し賃と言われているが、真田三代、幸綱・昌幸・信繁(幸村)が、裏切りや乱世の戦国時代を生き抜いた真田一族は、現代社会にも生きる我々にも通じるものかもしれません。天下人の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と違い、武田信玄や真田一族には人としての魅力があり、そんな生きざまが人気があるところでしょう。

【参考資料】
・大人の休日倶楽部
・ウイキペディア