もう1つ、書いてみようとおもう。
人と話して
人のことをわかるのだろうか?
便宜上「わかった」という言い方はするけど
全ての「分かり合えた」は「勘違い」だと思っている。
「そんなこと言ってもパートナーや友人のことはわかってるよ」と言うかもしれない。
それは、どうやって確かめるのだろうか?
その人でなければわからないことを
他人がどう頑張ってわかったと言えるのか?
突き詰めてみれば非常にあいまいなものだと思う。
この勘違いが危険だとも思っている。
「わかろうとする姿勢」は大事かもしれないが
100年付き合ったって「完全に分かり合えた」にはならないのだ。
おなじものを見ても
あなたと友人やパートナーで違う部分を見る。
それぞれが違うことを言っても
全て真実だ。
あっちで言ってることと
こっちで言ってることが
違ったとして、どっちかが嘘をついているわけでもない。
「分かり合えた」と思って
「相手は自分と同じ」と思うことで
少しでも食い違ったら腹を立てる。
そのほうがおかしいのではないか?
「相手が自分と同じ」をデフォルトにするのではなく
「相手は自分と違う」ということを認めて
それをデフォルトにすれば良いと思う。
同じだと思って、勝手に裏切られたと言うのは被害妄想も甚だしい。
どれだけ仲の良い関係であっても
相手は自分と違う。
そこだけは認めなければならないと思う。
同じだったら一切話す必要もなく、
一切絡む必要もない。
違うのだから、お互いに話すし
色んな絡み方が生まれる。
「違う」という前提があるから
「違う考え方を持つ相手」を尊重することができる。
「不完全性定理」によって
完全なる神のような存在は居ないことも証明されているし
そうすると善悪も元々は無いのだし
「不確定性原理」によって
「この世は曖昧なものだ」ということも証明されている。
以前の日記で書いたが
そもそも僕らはこの世界を正しく見えてはいない。
僕らが見ているのは、五感のフィルターを通して脳内で再現されている世界だ。
どこまでいってもこの世界はファンタジーなのだ。
完全なものなど無いし、
分かり合うことも無い。
このような曖昧な世界で
言葉として便宜上で使うかもしれないが
その言葉によって翻弄されてはいけないと思う。
英語と日本語の翻訳ですら1:1で
完全に呼応しているわけではないのと同様に
あなたの感情を100%言い表す言葉もないのだ。
なら、相手があなたのことを完全にわかると言うのもおかしな話。
「わかった」も
「善か悪か」も
「良い」も「悪い」も在ると言えば在るし無いと言えば無い。
自ら勘違いして、自ら病む。
それは非常に勿体ないなと思う。
ちょっと勇気を出して
「不完全性」を受け入れたら
ほぼ全てのことは完全でなくても良いのだと楽になる。
この記事も誰かの考えの参考になればと思っている。