阪神・淡路大震災から15年
今年は阪神大震災から15年になる。とにかくひどい地震だった。
CX系番組「神戸新聞の7日間」を観て、当時の状況を思い出したのである。
発生当時は、私が住んでいた東京練馬も、関西地区(被害の少なかった大阪など)も、まるで他人事の様な(ひとごとの様な)報道だった。「コンビニの棚が倒れました」程度のニュースしかやっていなかった。
私は地震直後の土日に、ミネラルウォーター(←ライフラインが途絶えている現場の方々の為の飲み水として)と乾電池(←あらゆる建築物が倒壊した方々の為の電気が使えない状況を助ける為に)をリュックに沢山詰め込んで、神戸に向かった。
※平日は仕事で会社を休むわけには行かないので、地震直後の土日に神戸に行った訳である。
電車はJR甲子園口駅まで(阪急電車は西宮北口まで)しか開通しておらず、私は甲子園口から徒歩でJR摂津本山駅(神戸市東灘区)まで行った。そして震災現場を歩き回った。神戸から大阪市へ“徒歩で”避難する人々の長蛇の列で国道は渋滞していたのだが、皆で励ましあいながら、そして遠藤の親切な方々が、水飲み場とおにぎりを振る舞っていたのには感動した。やっぱり人間の人情が感じられた。私が街灯も無い道に出来た地面の割れ目につまづいて足を故障したときも、一緒に歩いている人々が(お互いに赤の他人なのだが)次々と声をかけてくれた。
震災現場はいたるところで家屋が倒壊しており、救出作業をしているレスキューの方々,倒壊している現場から死体を掘り出しているレスキューの方々の姿が今でも目に焼きついている。夜を徹して救助活動を行っていたので、電気が使えない現場にこうこうと光る照明灯の明かりが、余計に悲惨な雰囲気を味あわせてくれた。
私の父の実家は神戸市東灘区の摂津本山駅(JR),岡本駅(阪急電鉄),青木駅(阪神電鉄)が最寄駅である。3路線共に神戸の山手から海よりまで並行して走っている。父の実家はその中間にあり、山手と海よりの中間である摂津本山が最寄駅である(父も母も京都市出身なのだが、父の実家は神戸に移った訳である)。
やっとの思いで父の実家へ行ってみたが、全壊していた。茶道や華道の師範だった祖母のコレクション(茶碗や掛け軸など)が散乱しており、事故現場泥棒の被害にはなっていたんだろう......と、とっても悲しい想いをしたことを今でも覚えている。実家の隣り近所も全壊しており、その中で生き埋めになって亡くなっているまま救助が来ていない状態だった。地震発生当日に神戸市垂水区に住んでいる叔父が現場に駆けつけた時には、家の全壊模様を見て、もう祖母は生きていないと思っていたのだが、祖母はコタツの中で寝ていたおかげで壊れた家の下敷きにはならずに済んだのである。地域の避難所(学校の体育館)で祖母と対面した叔父は、抱き合ってオイオイ泣いたということだった。
祖母は、被災の度合いが少ない叔父の家(垂水区)に避難して、その後横浜の私の実家へ引き取った。
それにしても、阪神・淡路の震災時の、被害の無かった地域の方の“自信に対する”意識の違いには驚いた。地震の事など全く気にしないで仕事や日常生活を行っているのである。放送局もあまり熱心に報道していなかった。被害が拡大してから報道は加熱してきた。人間と言うのは“ヒトゴト”には無関心な生き物であるくことが、よ~くわかった。当初は救援募金している人も少なかった。
当時やっていた対談テレビ番組(お笑い系)「パペポTV」は、普段は観客がいて大笑いするのだが、震災パペポでは、笑いを誘わない様に観客を入れず収録放送をしていた。出演者の笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎は怒っていた。震災によっておきた大規模火災の様子をビデオ撮影する為に、多くの報道機関の、多くのヘリコプターが現場上空を旋回していたのだが、その爆音が、被災者救助(生き埋めになっている犠牲者の生きているかすかな声を聞くこと)の邪魔をしているのには怒り心頭だった。
今の父の実家は、全壊した一戸建てのあった同じ土地の瓦礫を取り除いて、昔と同じ様に一戸建てを建てている。税関職員だった叔父一家が住んでいる。
※祖父は震災前に逝去,祖母も震災後に、叔母が住んでいる千葉県の施設に住んでいたが数年前に逝去したので、今は叔父が実家を引き継いでいる。交通の便が良いので、(横浜の交通の便が悪い田舎在住の私にとっては)羨ましい限りである。
でもとにかく震災で私の家族・親戚が無事でいてくれて何よりだった。