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 SETIと呼ばれる宇宙科学プロジェクトがあります。地球外知的生命体探査(Search for Extraterrestrial Intelligence)のことです。俗っぽく言うなら「宇宙人探し」といったところでしょうか。もう古い記憶になるのですが、国内の第一線でSETIを実施している研究者から直接お話をお伺いする機会があり、「こんなに本気で取り組んでいる活動だとは全然知らなかった!」と、とても新鮮な驚きがありました。私自身は銀河のような大宇宙より、もっと身近なところにある宇宙空間の物理学を専攻していたので、SETIとは全く接点がなかったのです。一口に「宇宙」と言っても、宇宙論、星形成、恒星・太陽、惑星形成論、活動銀河、星間現象、そのほか宇宙開発も入れるとそれはもう数えきれないたくさんの研究分野に分かれています。それらすべてを横断・網羅するのはまず不可能なことですし、お互いに干渉することが極めて限定的であることが少なくありません。専門分野のたこつぼ化と批判されることもあるのですが、専門性を極めようとしたときの宿命としてこれはこれで仕方のない側面があります。


 SETIについては1997年のアメリカSF映画「コンタクト」のメインテーマとなっていました。天文学者カール・セーガンが原作の非常に優れた映画でした。思い当たる人もきっとおられるのではないでしょうか。銀河の中に高度な科学技術文明を持った知的生命体が存在すれば、人類と同じように電波を使った通信技術を持っていると考えられる。人類と同じように自分たちの存在を知らせる電波信号を宇宙に放射しているかもしれない。あるいは地球から信号を発射すればその信号を受信した知的生命体から何らかの返答があるかもしれない。そのための巨大アンテナを地上に大規模に設置し、地球外知的生命体との直接的な交信を試みようというわけです。


 これは銀河系のどこかにいるかもしれない地球外知的生命体の存在を検証する純粋な科学的な取り組みである。そう、それは間違いないし、科学を土台にした夢とロマンに彩られた看板を掲げているのは確かなのだが、しかしどことなく宗教的な臭味がしないわけでもない。私は子どものころから宗教が日常の身近なところにあったので、そういう特徴を敏感に感じ取っていただけかもしれないのだが。


 宇宙に人類より高度な科学技術を持った知的生命体が存在する証拠などどこにもない。だれも見たこともない。もちろん証明されてもいない。それなのに巨大アンテナをドカドカ建造してアンテナを宇宙に向け、宇宙の仮想上の存在から送られてくるメッセージを受信しようと真剣になっている。宇宙から届くかすかな信号に神経を研ぎ澄ます。


 一方で存在が証明されていない「神」。世界中のキリスト教徒が熱烈な信仰で天の神様にお祈りし、天におられる神様から送られてくるメッセージを受け取ろうと真剣になっている。天からやってくるかすかな声に注意深く耳を傾けている。これら二つの態度の間に本質的に一体どんな違いがあるのだろうか。世界中で宇宙からの信号を心待ちにしている大勢の人たちは人間を超越した何かを求めている、そんな姿にも見えるのだ。研究者たちは「自分たちは科学の研究をやっている!」と言うのだが・・・。「科学と信仰と混同するな!」という声も聞こえて来そうだが、その境界線がなんだかあいまいだと感じる人は少なくないのではないだろうか。


 映画「コンタクト」はまさにそういうニュアンスで描かれてたと思うのだが、いかがだろう。とりわけ映画の結末のシーンはハイライトの一つと言って良く、主人公の科学者が公聴会で地球外知的生命体との接触体験を語ると「証拠も無い、説明もできない、幻覚だったと認めろ!」と激しく糾弾されるのですが、「立証も説明もできないが、自分の全存在が事実だと告げている! 宇宙のあの姿に我々がいかにちっぽけな存在か、同時にいかに貴重な存在かを教わった、この畏敬の念と希望を感じて欲しい!」と涙で訴え、公聴会の建物前に集まった宗教的信者の大群衆から熱烈に歓迎されていました。未知の存在を確信する、その存在を探求する、この点での科学と信仰の共通の到達点が実に見事に描写されていると感じました。


 というわけで、宇宙の暗黒物質(ダークマター)といいSETIといい、最先端の宇宙研究の中にはどこかスピリチャルというか宗教的な側面があると感じることがあるし、科学研究の体裁を取ってはいるがそれを実行する人間の心の根っこのところ、潜在意識下ではひょっとするとスピリチャルな何かに結びついているんじゃないのか、と勘繰ってしまうことがある。もちろんそんな宗教心などなくても科学研究はできる。科学研究に信仰は不要。今はケプラーやガリレオやニュートンらが活躍した時代ではない。彼らのように堂々と信仰が研究の主要な動機になっているという時代錯誤的な人は絶滅危惧種でしょう。「ですが」と、私はあえてその時代錯誤にこだわってみたいなと、共感は少ないと思うしそれが良い結果に結びつくのかはともかく、すごく気に入っているアプローチの一つではあるんですよね。