子どもの頃から宇宙に興味を持っていたお話については以前の記事で取り上げたところですが、その後の経過についてもう少し踏み込んでみたいと思います。
専門的に宇宙を探究するという姿にあこがれの気持ちが強かった私は、宇宙を本当に理解するためには物理学の知識が絶対に必要だということを知り、そのための勉強に邁進してきました。とはいうものの、物理学の言葉は数式で表現されるので、高等数学という強力な武器を持っていなければ全く話にならない。私は数理能力という点では大して才能があったわけでもなく、丸二日かかっても専門書の1ページぐらいしか進めないということも決して珍しくはなかった。ですから大学での物理の勉強は本当に大変でした。とにかく必死。試験を突破する、必要単位を取得する、卒業要件を満たす、そういうプレッシャーの中での勉強ですから、夢だけが大きくてもなかなか合格ラインに達することは難しく、無い頭を絞りあげるようにいつも悪戦苦闘していました。本当は単位取得とか卒業要件など妙なバイアスのかかった物理の勉強ではなく、純粋に物理学を極めることに集中することにこそ真の意味があるのだと思いますが、ときには現実との折り合いが必要になることもあります。
そうやって学生時代も、そして卒業後も無我夢中で物理の勉強をしてきた中で非常に興味深い体験を幾度かしてきました。例えば、世界のあらゆる電磁現象を統一的に描写するマックスウェルの電磁法則、光のエネルギーの量子性を導入したプランクの量子論、などなど。これらの法則の導出に至る過程には乗り越えなければならないたくさんの物理の概念や数学的技法があるのですが、その結果として導かれるシンプルな法則は実験、観測、現象を鮮やかに説明する。なぜそうなるのかを理解するために、物理・数学・化学の数々の専門書、学術論文、数学公式集など使えるものは何でも使いました。
「スゴイッ!間違いない!この世界は物理の基本法則によって精密に設計されているぞ!!」
電気に打たれたような感覚、インスピレーションと言っても良い。物理法則というのは単なる公式ではなく、宇宙を、この世界を統一的に支配する基本原理なんだ!
設計?、それなら誰がそれらの基本法則をを設計したのか?、設計者とは誰なのか?、そう、それこそが神ではないか!(これは宗教団体の神というより、もっと普遍的な偉大なる知的存在というニュアンス)。言うまでも無く、別に宗教心など無くても宇宙や物理の研究はできます。宇宙や物理の科学的探究というのは世俗の活動の一部であって信仰は不要、設計者の存在など気にしなくても何の不都合もありません。しかし“私個人にとっては”、この世界の真の設計者の存在を強く意識する特別な体験だったということです、それによって自分の信仰心が一層強化される宗教的で、一瞬でも本当に透き通るような境地。。。物理学という学問分野の特殊性とその世界観が持つ独特の個性はそういう直感とか発想の源泉たり得るのではないか、だいたい近代科学の歴史を紐解くと、その創世期には宗教と自然科学は現在ほどはっきりと分離しておらず、その意味において私はそんな時代錯誤で古典的な感性を後生大事に抱いていると言えなくもないんですよね。
それにしても長い格闘でした。物理学というのは典型的な積上げ式の学問分野ですから、余程の天稟に恵まれている人は別として、その習得には若いときからの段階的で継続した学習を前提にしています。ほんの凡人にすぎない私がそういう境地にようやく到達したことで、子どものころから一生懸命に勉強に打ち込んできたことが決して無駄ではなかった、報われたような気持ちになることがあります。この種の達成感は仕事での成功とか地位・富・名声といった評価軸では決して量ることができないまことにユニークなもので、単なる自己満足だと嘲笑されたとしても、内面世界の充足という点では他ではなかなか味わえない良質な経験でした。
とは言っても他人にはお勧めしませんけどね・・・、なかなか大変ですからね(^^;)