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『愛は脳を活性化する』


 これは、かつて松本元 博士が日本物理学会誌に発表した学術論文のタイトルです(日本物理学会誌 Vol.48, No.7, 1993)。とても物理学の論文とは思えないタイトルですよね。


 松本先生は元々物理出身で、生前、脳機能や脳型コンピューターの研究の第一人者として理化学研究所等で精力的に研究活動に邁進しておられました。くだんの論文については当時新聞各紙で取り上げられるほど大きな反響があったそうです。科学研究者の間では心とか心情については科学論文には書かないという暗黙の了解があると考えられているのですが、そこに「愛」という言葉が堂々としかも査読付きの物理学会誌面上に踊ったわけですから、科学の世界を震撼させる珍事あるいは事件だったとも言われています。「よく査読を通過したな」とか「あの松本先生だから通ったのでは」など、いろいろな意味で語り草になっています。私が大学生だった頃、松本先生のお話を聴くために、ある大学で開催された講演会へ電車で駆け付けた思い出があるのですが、とても気さくな方で講演内容にもグイグイと引き込まれたことをよく覚えています。にじみ出るような明るい人柄が講演会場を包み込んでいました。私にとってその講演会のインパクトは相当大きく、後日、教団の信者らに私が聞いた松本先生のお話を自慢げにペラペラしゃべっていたぐらいでした。


 さて、論文の内容をザックリ紹介してみましょう。


 まず導入部で脳研究の背景が述べられ、「人に近いコンピュータ」を開発するためには、「人(あるいは心)とは何か」を科学的に解明しなければならない、とりわけ脳の学習・記憶のうち情動(emotion:好き嫌い、恐ろしいうれしい、などの感情)に関する学習・記憶の解明がそのカギを握っていることが強調されています。そして、学習・記憶が心の生理的基礎を与えるものであることを示すため、長期記憶の4つの特徴を実験結果などとともに列挙し、快・不快の強い情動経験にまつわる情報は脳内に蓄積され、それに基づいて無意識に行動する記憶の仕組みが脳に備わっていると説明しています。情動性の特に強い刺激、中でも自己の存在意義にかかわる強い刺激は大脳皮質を介さず、視床から扁桃体への直接入力情報によって記憶が強化され、潜在意識として蓄積される。この「意識的な行動を制御する働きをしている大脳皮質を経由しない」というところが重要なポイント。ポジティブな情動情報を受け取ると脳は活性化し、ネガティブな情動情報で不活性となる。具体的には「自分の存在が意義深いと思えた時、脳が活性化しいきいきと生きられる」ということでした。


 続くセクションは「愛は脳を活性化する」とタイトルされ、本論文のハイライトと言うべきところです。


 不運にも交通事故に遭遇し脳を損傷した高校生がご両親の献身的な介護のもと、手の施しようがない重症から奇跡的に回復していくシーンが回想されています。右頭蓋骨陥没、右大脳半球広範部(前頭葉・側頭葉・頭頂葉)に急性硬膜下血腫・硬膜外血腫、外傷によるクモ膜下出血、強い脳膨張による大脳半球の左方への扁位、それに伴う鉤ヘルニアによって意識不明の重体に陥った高校生。執刀医から「植物人間になる可能性非常に高い」と言われていたほど手術時の状態は悪かった。術後、ご家族は集中治療室(ICU)にて子のベッドサイドで毎日の大半を過ごし、子の存在を喜んで語りかけ、まったく動かない手や足を何時間もさすり話しかけることを毎日行なっていた。約1ヶ月後、生徒の左半身がピクリと動き始めたので、両親はさらに続けたところ翌月にとうとう意識を取り戻した。しかし右大脳半球の脳委縮と脳室系の拡大があるため、担当医は「意識が戻ったが、左半身は絶対に動かないと思います」と宣告。しかし、リハビリや温かい看護のおかげで左半身も正常に動くまでに回復し、学校に復学して通常の社会生活を送るまでになった。右脳の萎縮と脳室系の拡大があることを行動からは伺い難いが、これらの著しい回復は、ICUにご家族が毎日長時間滞在し「この子の存在を喜んでいること」を伝え、いつもポジティブな強い刺激を加え続けた結果であると考えられる、ということでした。


 この推測は逆の現象が観察されたことからも裏付けられます。生徒は2年遅れて高校1年生に復学することができたのだが、学校の先生から「君のようにハンディを負った子のための学校があるから、そこへ転校することを考えたほうが良いかもしれない」という趣旨の忠告に、生徒は自分の存在が否定されていると捉えてしまった。その日の夕方帰宅してから、それまで正常に動いていた左半身が動かなくなってしまった。自分の存在意義に消極的になってしまい、脳の活動が著しく低下したことが原因と思われる。そこで、この生徒が負った苦難やハンディが、精神的に向上するためにどんなに大切なものかを話し合った。自分が苦難や悲しみに直面することで、同じように悲劇に遭遇した人たちの気持ちを知ることができる、人と人を結び付ける強い絆にはお互いに体験を共有し共鳴できる心が必要、それは人間の在り方として非常に尊い、このような体験のない人が意図せず相手を傷つけることがある、それを許さないと憎しみは際限がなくなり、脳の原理からしてもその結果最も傷つくのは結局自分自身である。このような趣旨の話をしているうち、生徒が「何か判ったような気がする」と言ったとき、左半身がゆるんでまた元通り動くようになった。生徒の右脳の萎縮や脳室系の拡大は変わらないので、左半身の回復は術後に残った脳部位の機能の再構成によると考えられる。これらのことは、情動情報が「快」か「不快」かによって、身体機能が決定的に左右されるほどまでに脳の活性化が極めて絶妙に調整されていることを示している、ということでした。


 さらに脳科学と宗教(とくにキリスト教)との関係を論じ、聖書の記述に貫かれている精神が脳科学の立場から見てを合理的で極めて論理的であることを意欲的に解説しています。


 創世記に「神は自分のかたちに人を創造された」とあるように、霊なる神のかたちに似せて造られた人は霊的存在であり、それゆえに人として生まれたからには、その事実だけですばらしい存在であるということを端的に示している。しかし、このように正しく清らかな魂を神より預けられたすばらしい人間も、自らを省みず訓練しないままでいると肉欲によって、また、人から愛されたいという精神欲によって罪深い行為を犯す。肉欲はよく知られているが、精神欲によっても自己中心的な思い、忍耐心の欠如、傲慢な考えから、わがまま・欲張り・甘えなどが生じる。これらの原罪から解放してくれたのがイエス・キリストである。肉欲・精神欲の情動性の判断基準として、イエス・キリストが自分の身代わりになって死んで下さったおかげで自分は清められたと信じることによって、キリストのもつ情動の基準に近づけようとする。このとき祈りは神の子イエス・キリストを強くイメージすることで大脳皮質経由でない繰り返し学習により神と交信し、神との絆を強くし情動系の質を向上させられる。人が本来保有している優れた特質を強化鍛錬するためには祈りのような情動系の学習が必要で、この意味でキリスト教の基本精神は脳の基本原理に極めてよく合致している。


 続けて、聖書の教える愛についても脳の働きの観点から言及していきます。


 「人は愛によってはじめて生きられる」というのが聖書のもう一つの基本思想である。「愛は寛容であり、愛は親切である」、これはまさに人間が持つ脳の情動系の基本原理である。すなわち、人はありのままの自分をそっくり受け容れてもらうと(寛容)、それは人にとって最高の快情報となるので、受け容れてくれた人に対し快行動を示す(親切になる)。殺人を犯した人でさえも、その人が尊厳ある存在として受け容れられると、その人は受け容れてくれた人(この場合はイエス・キリスト)から人として最高の快情報を得るので、この人(イエス・キリスト)に快行動を示し親切になる。何故イエス・キリストは自分自身にこんなに親切なのかを考え、イエス・キリストの意向に真心からこたえようとする。人間は自分を尊厳ある存在として受け容れてもらうと情動の価値基準が変化し、それによって行動に変化があらわれ、単なる大脳皮質からの抑制という見せかけではなく、真底から変わることができる。すばらしい人生を生きるためには、あらゆる情報を快情報ととらえ、自分が置かれている現在の状況を感謝することがまずその第1で、実際聖書には「あらゆることに喜びなさい」と述べられている。快情報と捉えるかどうかは捉える人自身の心の問題だが、聖書は「神の国はあなたの只中にある」と教えている。こういうふうに、科学と宗教は対立するものではなく、脳科学の研究成果からすると両者は融合するもので、融合することによって新しい時代の幕が明けることが期待できる。



 いかがだったでしょうか。実際に論文を読んでみると分かるのですが、「愛」・「祈り」などのキーワードがあちこちに散りばめられており、冷たい印象を持たれがちな物理の論文とはまるで対極にあり、ある意味で伝説的な作品になっていると言って差し支えありません。リアルタイムで衝撃を受けた人が少なくないという事実は容易に頷けるものでした。私自身もこの科学論文を読んで自然と頬が緩むという本当に滅多にできない経験ができ、とても心地良い気分になりましたね。


 「愛は脳を活性化する」(松本元, 日本物理学会誌 Vol.48, No.7, 1993)の論文はオープンアクセスで、科学技術振興機構(JST)が運営するウェブサイト(J-STAGE)からPDFのフリーダウウンロードが可能です。内容を詳しくお知りになりたい方はぜひお読みになってみてください。日本語で8ページの分量です。