今日は聖書に関連した話題にフォーカスして書いてみようと思います。
現在の私は教団の宗教活動にコミットしていないのですが、波長の合う一部の信者との個人的な人間関係は続いており、夕食会やバーベキューなどの機会を通じて地元の教団コミュニティの人たちとの部分的な接点は今なお存在しています。とくに自分と教団との間の適切な距離を見極めたことの効果は絶大で、不必要な摩擦や無益な衝突のために貴重な時間とエネルギーを奪われることがなくなり、教団の活動に関わっていた頃と比べると比較にならないぐらい精神的に楽になりました。今では、信者らと接触する場面は彼らの精神的姿勢や振る舞いを客観的に観察する機会にもなっており、距離感の持つ心理的意義をつくづく実感しています。
私も教団の宗教二世の一人ですから、子どものころから現在に至るまでいろいろな信者と接触し、数々の信仰の表明に耳を傾けてきました。しかし残念ながら共感できるところは少なかったし、信者らとの交流の中で彼らが見せるメンタリティにどこか奇妙だと感じることが少なくありませんでした。その奇妙に感じることとは具体的に何かと申しますと、少なくない信者が「神から『愛されている』」という受け身の感覚に異様なまでにこだわっている点です。
「聖書の中で最大の掟は何ですか?」と聞かれたら、「魂をこめて『神を愛する』ことです!」と即答することができる。「では第二の掟は何ですか?」と聞かれたら、「自分自身のように『隣人を愛する』ことです!」と即答することができる。シンプルだ。教団二世であれば常識的な知識だろう。こういうふうにキリスト教の聖書が説く愛の原則は、見えない存在であっても敵対する人間であっても『愛する』という感情を自分の強い意志の力で発動する、という極めてアクティブな愛を強調し要請している。それがすべてだと言っても良い。「受けるより与えるほうが幸福である」という教えにもあるように、最も大事な愛の原則は、『愛される』という受け身ではないことは明白で、それどころか聖書では『愛される』という受け身の愛については大して強調しておらず、「愛されなければならない」などと求められてもいない。
自分に親切にしてくれた人や優しくしてくれた人に対して自然に愛情が沸くぐらい誰でもある、誰でもできる。しかしキリスト教の聖書の大原則たる精神が、強い意志の力で発動するというアクティブな愛を強調・要請していて、教団信者もそれらの聖句をそらんじるほどよく知っているはずなのに、それがどういうわけか『愛される』という受け身の愛に異常なこだわりを持っている人たちが少なくない。組織内でそれなりの立場に就いている信者であってもこの傾向は顕著で、以前から私の目には「これは一体どういうことなんだろう?」と奇妙に映っていました。
先日、私の近所に住んでいるご高齢の教団信者ご夫婦から夕食会に招かれたときのことです。その高齢信者は、昔、教団専属のフルタイム奉仕者として日本各地で活動していたとのことで、夕食会では私自身のトピックを振りまいたばかりでなく、教団のいう論理の「霊的な会話」にもお付き合いしました。その夕食会でも「キーボード兄弟は神から『愛される』という認識をもっと大切にすべきだ、そういう認識から真の幸福や真の満足が得られ、ゴニョゴニョ・・・」と身振り手振りを交え私を教え諭すように熱弁していました。私は表面的にはニコニコしながらうなづいて了解したフリをしましたが、内心は「あ~またか・・・」という心境になっていました。「いやいや、あのね、○○兄弟はホントに自分の思考力を使って聖書を読んでます? 聖書が説く愛の大原則をホントに分かってますか!? 強調するところが聖書的にデタラメですよ!」とツッコミたい気持ちをどうにかコントロールしてその場を和やかにやりすごしたのでした。
こういうふうにいろいろな信者から繰り返される似たようなお話を聞いて、なぜ『愛される』という受け身の愛にこんなに執着するのかと考えこむようになりました。そしてこれまでいろいろな人たちから伺った話を総合すると、この現象はひょっとするとその人自身の生い立ちや家庭環境に深く由来しているのではないかと思い始めています。
例えば、子どもの頃に父親・母親の両方から本来受けるべき深い愛情を十分得られなかった、愛情が著しく欠落した家庭環境を過ごしていたとしたらどうだろうか。親子関係・夫婦関係が破綻し、家族の中にあるべき温かい愛情の代わりに憎悪がどくろを巻いていたらどうだろうか。慈悲が無く冷酷で恐れが支配する家庭だったらどうだろうか。心をむしばむ複雑な家庭環境の中で多感な成長期を過ごしたり、健全な精神的成長や安心を阻害された場合、自覚・無自覚を問わず常に愛情の欠乏感があるのではないか、そういう人たちにとって自分より大きなものから『愛される』という感覚は想像以上にハートに刺さるのかもしれない、そんなふうに考え始めています。
この現象(受け身の愛にこだわる姿勢)について、聡明な読者の皆さんはどんなふうにお考えでしょうか???