秀秋公を求めて 岐阜県・禅台寺 | 古戦場かたりべ武者 違い鎌ってkinGO!!

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小早川秀秋公の評価向上を目指し金吾さんを語りつつ、歴史考察、史跡、戦国系祭り・イベント、おもてなし武将隊、戦国無双など日々の戦国をだらだらと小早川家の自前甲冑語り部武者が綴ります。

●秀秋公を求めて

平岡頼勝の墓・禅台寺(岐阜県可児市)

 

平岡頼勝といえば関ケ原で暗躍しまくった小早川家臣と言ってもよいだろう。

黒田官兵衛殿の姪(一説では娘)を正室とし、黒田家との繋がりがあった故、関ケ原での東軍とのやり取りはほぼ平岡殿が主導だった。

東西両軍に出した人質も平岡家の者だった。

関ケ原の後、岡山では海側の守りとして重要な下津井城を任せられる。

最期まで小早川家に仕えたとも言われているが、可児市史や寛政重修諸家譜では途中で出て行ったことになっていて真相はよく分からない。

伝承では秀秋公が死の間際に稲葉を呼べと言ったので慌てて呼んだのは平岡殿と言われている。が、その辺は伝承だからなぁ・・・

 

そんな平岡頼勝殿のお墓と菩提寺について。

 

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平岡頼勝殿の墓がある禅台寺は岐阜県は可児市にある。

可児駅から歩いて20分くらい、途中には岐阜県の郷土料理『鶏ちゃん』で有名な『鶏よし』さんもあり、墓参りした帰りに食すのがワシの恒例だ。

車で行くのなら多治見インターを下りて可児バイパスをひたすら走るか、可児御嵩インターからひたすら西へ走る。

お寺の駐車場をお借りして停めよう。ただし墓所前の駐車場は必ず頭から入れましょう。排気ガスが墓石に掛かってしまうので。

 

禅台寺はこの辺りを見渡せる高台の上にある。

駅から歩いて最後に迎えるトドメの急な上り坂。

鎌倉時代末に西帷子真禅寺開山の鈍庵和尚が結んだ草庵が起源とされ、慶長13年(1608年)に平岡家の菩提寺とされ山号を平岡山と改めた。

すぐ近くの坂祝にある河尻秀隆殿の菩提寺・長蔵寺と外観や物の配置がよく似ている気がするのは気のせいではないと思うが関係は如何に?

 

 

平岡殿のお墓は本堂の西側の坂を上った更に高い所にある。

石垣を組み、その上に石の柵(玉垣)で囲った五輪塔がある。墓の総高は68センチと稲葉殿と比べて小ぶりだ。

 

 

四角の地輪には

『前石州大守

心月宗安大居士』

とだけある。没年月日は何処にも無い。

 

地輪の後ろの面が明らかに削られた跡があるのが気になる。他の面は綺麗に平なのに後ろだけごつごつ。何を隠したのだろうか。それとも見えないところは削り出した時のままなのだろうか。

可児市史によると位牌は禅台寺さんにあるそうだがワシはお会いしたことはない。

 

讒言により流浪せしところ、山岡道阿弥、東照宮の恩命をうけたまはり、今よりのち憚ことなく諸国を經歴すべきのよし、これを傳ふ。九年八月晦日美濃國可児、羽栗、中島、大野、不破、加茂、席田(むしろだ)、本巣、山縣九郡のうちにをいて、一萬石の地を宛行はるゝのむね御朱印を下され、十年伏見にをいて東照宮に拜謁し、御麾下に列し、後可兒郡徳野を居所とす。十二年二月二十四日卒す。年四十八。心月宗安高善院と號す。徳野禪臺寺に葬る。(寛政重修諸家譜)

 

にもあるように可児市の記録では小早川家を途中で出たことになっている。

寺の解説板の旧版は家譜の内容で書かれていたが、2018年に作り替えられた物には秀秋没後流浪となったとある。平岡殿の行動ははっきりとは分かっていないということだろうか。

岡山での知行やお寺への書状を見ると杉原殿と稲葉殿の名若しくは二人の連名で出されており平岡殿は見当たらない。下津井の守りで忙しかったのだろうか。

 

足元にどんぐりが転がり風の音と鳥の声だけが聞こえる。

お寺の敷地内には保育園があるので平日はきっと賑やかなのだろう。

秋に紅葉が綺麗な静かな墓所です。

 

《禅台寺》

509-0203

岐阜県可児市下恵土2838-1

JR太田線 可児駅より徒歩約20分

駐車場あり

 

 

 

●余談

鶏ちゃんは本当におすすめです。白飯がすすむにんにくの効いた鳥と野菜の炒め物。

ガスコンロにフライパンのままで出てきた時はちょっと驚いたが鳥よしさんはそういう形式らしい。

初めてと伝えたら焼き方を教えてくださったので聞きながら焼くといいですよ。

名古屋からもわざわざ食べに来る方も多いのだとか。