古戦場かたりべ武者 違い鎌ってkinGO!!

古戦場かたりべ武者 違い鎌ってkinGO!!

小早川秀秋公の評価向上を目指し金吾さんを語りつつ、歴史考察、史跡、戦国系祭り・イベント、おもてなし武将隊、戦国無双など日々の戦国をだらだらと小早川家の自前甲冑語り部武者が綴ります。

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●秀秋公を求めて

平岡頼勝の墓・禅台寺(岐阜県可児市)

 

平岡頼勝といえば関ケ原で暗躍しまくった小早川家臣と言ってもよいだろう。

黒田官兵衛殿の姪(一説では娘)を正室とし、黒田家との繋がりがあった故、関ケ原での東軍とのやり取りはほぼ平岡殿が主導だった。

東西両軍に出した人質も平岡家の者だった。

関ケ原の後、岡山では海側の守りとして重要な下津井城を任せられる。

最期まで小早川家に仕えたとも言われているが、可児市史や寛政重修諸家譜では途中で出て行ったことになっていて真相はよく分からない。

伝承では秀秋公が死の間際に稲葉を呼べと言ったので慌てて呼んだのは平岡殿と言われている。が、その辺は伝承だからなぁ・・・

 

そんな平岡頼勝殿のお墓と菩提寺について。

 

※写真の無断転載・加工・使用は一切禁止しております。

見つけた場合は一枚に付き5万円請求致します。

 

 

平岡頼勝殿の墓がある禅台寺は岐阜県は可児市にある。

可児駅から歩いて20分くらい、途中には岐阜県の郷土料理『鶏ちゃん』で有名な『鶏よし』さんもあり、墓参りした帰りに食すのがワシの恒例だ。

車で行くのなら多治見インターを下りて可児バイパスをひたすら走るか、可児御嵩インターからひたすら西へ走る。

お寺の駐車場をお借りして停めよう。ただし墓所前の駐車場は必ず頭から入れましょう。排気ガスが墓石に掛かってしまうので。

 

禅台寺はこの辺りを見渡せる高台の上にある。

駅から歩いて最後に迎えるトドメの急な上り坂。

鎌倉時代末に西帷子真禅寺開山の鈍庵和尚が結んだ草庵が起源とされ、慶長13年(1608年)に平岡家の菩提寺とされ山号を平岡山と改めた。

すぐ近くの坂祝にある河尻秀隆殿の菩提寺・長蔵寺と外観や物の配置がよく似ている気がするのは気のせいではないと思うが関係は如何に?

 

 

平岡殿のお墓は本堂の西側の坂を上った更に高い所にある。

石垣を組み、その上に石の柵(玉垣)で囲った五輪塔がある。墓の総高は68センチと稲葉殿と比べて小ぶりだ。

 

 

四角の地輪には

『前石州大守

心月宗安大居士』

とだけある。没年月日は何処にも無い。

 

地輪の後ろの面が明らかに削られた跡があるのが気になる。他の面は綺麗に平なのに後ろだけごつごつ。何を隠したのだろうか。それとも見えないところは削り出した時のままなのだろうか。

可児市史によると位牌は禅台寺さんにあるそうだがワシはお会いしたことはない。

 

讒言により流浪せしところ、山岡道阿弥、東照宮の恩命をうけたまはり、今よりのち憚ことなく諸国を經歴すべきのよし、これを傳ふ。九年八月晦日美濃國可児、羽栗、中島、大野、不破、加茂、席田(むしろだ)、本巣、山縣九郡のうちにをいて、一萬石の地を宛行はるゝのむね御朱印を下され、十年伏見にをいて東照宮に拜謁し、御麾下に列し、後可兒郡徳野を居所とす。十二年二月二十四日卒す。年四十八。心月宗安高善院と號す。徳野禪臺寺に葬る。(寛政重修諸家譜)

 

にもあるように可児市の記録では小早川家を途中で出たことになっている。

寺の解説板の旧版は家譜の内容で書かれていたが、2018年に作り替えられた物には秀秋没後流浪となったとある。平岡殿の行動ははっきりとは分かっていないということだろうか。

岡山での知行やお寺への書状を見ると杉原殿と稲葉殿の名若しくは二人の連名で出されており平岡殿は見当たらない。下津井の守りで忙しかったのだろうか。

 

足元にどんぐりが転がり風の音と鳥の声だけが聞こえる。

お寺の敷地内には保育園があるので平日はきっと賑やかなのだろう。

秋に紅葉が綺麗な静かな墓所です。

 

《禅台寺》

509-0203

岐阜県可児市下恵土2838-1

JR太田線 可児駅より徒歩約20分

駐車場あり

 

 

 

●余談

鶏ちゃんは本当におすすめです。白飯がすすむにんにくの効いた鳥と野菜の炒め物。

ガスコンロにフライパンのままで出てきた時はちょっと驚いたが鳥よしさんはそういう形式らしい。

初めてと伝えたら焼き方を教えてくださったので聞きながら焼くといいですよ。

名古屋からもわざわざ食べに来る方も多いのだとか。

 

 

好きな武将は小早川秀秋公。

そう答えるだけで必ず怪訝な返答がくる。

何故好きかと問われても好きな者は好きなのだからしょうがない。正直直感としか答えられないのだ。

 

尾張生まれの自分には戦国武将・三英傑は身近なものだった。気づけば秀吉様が好きだった。

豊臣の沼を渡り歩き何かを探していた。

一時は石田三成地区に身を置いてみたが何かが違った。似ているけど違うんだよ、『これじゃない』感がすごい・・・

秀秋公を見つけた時は本当に直感だったとしか言えない。

「ああ、殿。こんなところにいらした。探しましたよ。」ただそれだけだった。

殿を見つけた後は史料を探した。所縁の地をまわった。

そして出た答えが、殿史料無さ過ぎ。誤解されまくり。誤解されるような物だけが敢えて残されているかのようで普通の手紙とか無いよね。秀秋公の専門家は?一人?本は?無いのかよー!!かよーかよー!!!

 

幸いワシは東西どちらに行くにも便利な真ん中に居る。フットワークも軽い方だ。無いのならば自分で作るのみ。所縁の地をまわり、家臣たちの記録から当たろう。

 

裏切り者で知られる秀秋公。鉄砲で脅されて寝返った優柔不断な若者。肖像画も頼り無い気で気弱そうで裏切りそうだよね。この言葉を何度関ケ原で観光案内している時に聞いたか。

ほんの一時だが関ヶ原に移住し、観光案内人を務めたが秀秋公の低評価の言葉を聞いたのは数えきれない。

よく出る肖像画の話。高台寺所蔵の肖像画が実は幼い頃の秀秋公を描いた物だというのは殆ど知られていない。

秀秋公が亡くなった後、北政所様が自分が育てていた頃の金吾坊っちゃんの姿を描かせた物だと言われている。育てていた頃ということは一桁の頃、丹波亀山に領地を与えられる前くらいまでと考えていいだろう。

一桁の男の子の絵姿を関ケ原の戦い当時18歳(満年齢)の姿ですよ~などと無理がある。現代で言えば小学校入学時の写真を出して高校卒業時の姿ですよと言うようなものだ。男の子なんて育ったら別人28号だ、無理がある。

誰かに見せるわけではなく、北政所寧々(お寧)様が自分が手をあわせる為に描かせた自分の為の遺影なので武将時代でなくてもいいのだ。自分の為の金吾は記憶に残る可愛い金吾でいいのだ。

それを知られていないばかりに垂れ目なおっとりとした少年肖像画が18歳の青年として出される我が殿の不憫さよ。

 

他に殿の手紙としてよく出るのが二日酔いの文。

文字がへにょへにょしていて笑われる。酒に溺れた秀秋らしいと言われる。

殿の性格が垣間見える文は殆ど残っていないが無いわけではない。

兄弟へ宛てた文、朝鮮に着いた時に送った文などもある。しかし秀秋の文というとこの二日酔いかおねね様にお金を貸してくださいとお願いした文しか出てこない。軟弱な秀秋を演出したいが為に敢えてチョイスされているのかと疑いたくもなる。

 

と、まぁ色々と誤解されている我が殿小早川秀秋公だが、まずは殿の所縁の地をめぐる参考資料を作ろうと思う。

デジタルカメラや携帯カメラが進化し、美しい写真が素人でも撮れるようになった現代。何年にも渡り撮り貯めた物を出すべきだと思うに至った。人間いつ消えるか分からないものである。

文書が書けないが何もしないよりはマシだ。誤字脱字はご容赦いただきたい。

関ケ原で一人毎週松尾山を眺めながら秀秋公を語り、西軍派の客人から数々の憎悪を受け、罵られながらずっと見てきた小早川の民が旅をしてきた記録を綴ろう。

今後現れる秀秋公好きの若者たちへ。キミたちが旅をする時の助けになるように。

何時消えるか分からない力なき語り部武者の記録を。

 

 

何年ぶりでしょうか。

アメブロのログイン方法すら忘れ入るのに苦労しました。

どうもお久しぶりの鍵助(キースケ)です。

 

岐阜県と岡山県の関係者及びおっかけからの嫌がらせと脅迫のストレスから心身を患い難聴に。

耳が体幹を司る役目もあり、併せて体幹器官の損傷により気圧によっては動けない体となりました。所謂メニエール病というやつですね。

おかげで回転系に弱くなり、殺陣も回転が加わるものは出来なくなりました。

絶望して死にかけてもみましたが、ワシが死んでも虐めた奴が喜ぶだけなので何かアホらしくなりました。

大人の虐めってえげつないですね。

虐めというか犯罪ですよね。

脅迫とか、匿名による誹謗中傷の書き込みとか、盗作とか、犯罪ですよね。虐めじゃなくてちゃんと犯罪として扱って欲しいものです。

 

田舎社会なので身内は守るんですよね。どんなことをしても●●さんの子だから許してあげなよとか。

犯罪でも守ろうとする。

それなのに余所者には凄く厳しい。

向こうは身内でこちらは余所者。一から作り上げたものも結局はそいつの為の舞台だったと。

土台だけ作らされて取り上げられる始末です。

で、それを受け入れず、パシリ(奴隷)になることを拒めば、讒言振り撒いて潰しにかかると。

 

自分たちの栄光と名誉の為に他人を踏みつけ精神を殺し、ファンを使って嫌がらせをし、気に入らない者には脅迫や圧力をかけ、悉くを潰して自分たちだけの舞台を作り上げ、今の地位を確立した者たちがいつかくたばることを願いつつ、ワシはワシのやれることをして行きたいと思います。

 

一年かけて勉強をし直して史跡ガイドになりました。

これで改めて出陣・解説・おもてなしが出来ると思っていたのですが、手を回せれ、こちらでも出陣出来ないよう意地悪をされました。

が、そこは別の考えで乗り越えましたのでボチボチやっていきたいと思います。

かれこれ10年ですし、今までの旅の記録や、秀秋公のことも書いていきたいなと。

 

 

生きてるし。

うん、生きてる。

 

紀伊守鍵助

6/2は本能寺の変が起こった日です。
秀秋公が一番最初に治めた亀岡で、6月の第一日曜日に信長公忌が行われると聞きました。
秀秋公が建立した寺で。

は?何で?

調べてみるとそのお寺・聖隣寺は秀秋公が息子を弔う為に建立したとのこと。
寺の墓地には信長公四男・信勝殿が建てた信長公の供養塔があり、毘沙門堂に奉られている毘沙門天は明智殿の毘沙門天像。
内容盛り盛りやん。

亀山時代に子がいた話は知っていたのですが、余り信じていませんでした。
秀秋公が丹波亀山を治めたのは1589年~1595年です。年齢でいうと7歳~13歳なわけです。
子…まぁ…13ならあり得なくもないかな~

この聖隣寺にはその息子の位牌があるそうで、ネットで拾った話では没年が1591年でした。
秀秋公9歳で子持ち……
いやぁ…それは…早熟だとしてもちょっと…

しかし、亀岡城周辺の五寺には秀秋公が供養の為に毎年米二石を寄進した記録があるそうです。
二石、現在価値で一石・約75,000円×2×五寺…


お位牌を自分の目で確認したいです。
ただの小早川秀秋オタクではお目にかかることすら難しいでしょうねぇ(´・ω・`)

秀秋公は三人子どもが居た形跡があります。
一人目がこの亀山時代の子。
二人目が古満姫との離婚の原因となった娘と思われる子。姫路で開催された秀吉様展で触れていた播磨のとある家に残された記録からも確認出来る子ですね。
そして三人目が土肥姓を名乗り、隆景さん木像を持っていた秀行くん。

亀山時代が謎過ぎます。
某先生の本ですと、山口玄蕃さんは小早川家養子入りの頃に付けられたとありましたが、ワシは亀山時代だと思います。
その話はまた今度。







どうもこんばんは鍵助です。

自前甲冑武者の方々はご存知の方も多いと思いますがこの鍵助、うん年関ケ原で活動しておりました。
ワシが創設した隊を乗っ取られたこともご存知でしょうし、人質を取られ道が断たれたのもご存知でしょう。
その隊と隊に惚れ込んだ方々から何年にも渡り嫌がらせを受けたこともご存知でしょう。

取り巻き、常連だけでなく、全く事情を知らない関ケ原合戦絵巻参加者の間でも鍵助は危険奴、頭おかしい、小早川秀秋を貶すと噛み付かれる、ホラ吹き、被害妄想、などなど色々SNSで撒かれているのを確認致しました。
三成祭りでも口頭で拡められていたのを確認しております。

まず一言。
鍵助はヤバいと忠告したり騒いでいるお前ら誰?

会ったことある?
話したことある?

おもてなしでキミが誰かを知らずに会話しているかもしれないが、ワシがどういう人間か分かるような会話はしていないよね。
キミが知っていること、全部誰かから聞いた話だよね。
自前甲冑武者鍵助と一対一で会い、自分の目で見て自分の耳で聞いた?

ごめんな。
ワシにとってキミは名前も知らない観光客の一人なんだわ。
顔も知らんわ、興味無いし。
常連かもしれないけれど、目が悪いから顔なんか見えんし、覚える気もないし、覚えられるような顔なの?
ワシ、人の顔覚えないんだわ。

なぁ、何知ってんの?

Twitterでブロックされたと喚いている方が居たとも聞きましたが、地雷である関ケ原組の話をした方と、常連ぽい方は徹底的にブロックしてます。
常連には関ケ原の話をパクツイされたこともありますので。

ほぼ名前なんか確認してません。
目についたもの徹底的にブロックかましてます。
ので、ブロックされた、敵と認識された!!と言われましてもふーん…そうなんだ。くらいの感想です。
自分の心の安寧の為には地雷は取り除くのです。
勘違いでブロックしている方も多分何人かいるでしょうね、すみません。

外せと言われましても、関ケ原組の話している時点で仲良くなれないから。見てくれなくていいよ。
関ヶ原組の話する方とは関わりたくないので。
大大大地雷だもの。


それからもう一つ大事なこと。
ワシのことは勝手に罵っていればいいわ。
キミなんかどーでもいいもの。
寧ろ関わってこんで。
日記見に来なくていいから。常にチェックしてるとか何?ストーカー?きもっ

だがな、秀秋公を罵ると噛み付かれるって…それおかしくない?

罵るなよ。

歴史人物罵るなよ。
そこおかしいぜ。
現代に伝わる話が本当かどうかは誰にも分からない。
ましてや記録の少ない人だ。
自分の知識だけで人の善し悪しを判断して、故人を罵るのは人として大問題ですよ。

噛みつく噛みつかない以前の問題ですよ。
罵るなよ。

関ヶ原でおもてなし活動をしていて感じたことですが、関ケ原周辺は何故か小早川秀秋だけは『ぬっこ口していい』
という流れがあります。

貶していい、暴力奮っていい、史跡の名前の部分を傷付けていい。
小早川秀秋『だけは』いい。

そういう暗黙のルールみたいなのが関ケ原で活動する人たち、常連、西軍派、三成派の間にはありました。

大谷刑部に呪い殺されたんだよね。
よく言われました。
「呪いなんてあると思う?」と聞くと「無いよ」と即答。
「じゃあその話だって作り話じゃない?」
そう問うと、「小早川は呪われるよ。」と返ってくる。

理屈じゃないのでしょうね。

自分が信じる正義に刃向かった者は全て敵、悪。
悪は潰すもの。
本気でそう思っている。
自分は悪を懲らしめている。
悪だからやられて当然。
虐めでも差別でもないこれは制裁だ。
本当に心からそう信じている。
だから何の躊躇いもなくやる。

秀秋公がキミに何かしたかな?
一族郎党皆何かされたんですかね?
演者にすら暴行加えるとか異常ですわ。
でも関ヶ原ではそれが当たり前になっていました。
ワシだけじゃない、一般の小早川好きも暴力振られました。

関ケ原の活動者はそれを上手く利用していた所もありましたね。

関ヶ原町も三成の正義、大谷の友情、小早川の裏切りという物語関ケ原、ドラマチック関ケ原でやっていきたいのでしょう。
出される商品が悉く『裏切り』が付いていますからね。
子孫のこととか、守っている人のこととか考えたことあるのでしょうか。
面白おかしく笑って裏切り者と罵るその風潮、異常ですよ。

小早川秀秋は最初から東軍説を観光案内で話していましたら、とある関ケ原町の人から「余計なことはするな、小早川は裏切り者で居ろ。」と怒られました。

歴史って研究は研究、物語は物語で両方楽しむものではないのですか?
分かった上で両方見たり読んだり観たりするのではないのですか?

たった数回しか出られませんでしたが、岡山では誰一人として『裏切り者』とは言いませんでした。
関ケ原だけです、毎週毎週知らない人から罵られたのは。関係者ぐるみで一人を貶めるのは。
誰かを上げる為に誰かを下げるのは。


ずっと関ケ原を見てきたワシが言います。
毎週観光案内していたワシが言います。

狂ってますよ関ケ原。

でも…
それでもワシはこの地へ行くだろう…
その地に居る人たちにずたぼろにされても。
この土地は素敵な場所だから。



お久しぶりの鍵助です。
一応生きてますが甲冑武者生命は死にました。
激しい運動は無理です。殺陣もどこまで出来るやら…
病は一生治りませので上手く付き合っていくしかないです。

三年に渡る嫌がらせの数々。
精神からゴリゴリ削られ体に異常が出てしまいお休みしていました。
断腸の思い。どんなに悔しかったか。
全国何処の史跡よりも格段に思い入れが強かった関ヶ原。
治していつか復活してやると食いしばって這いつくばって生きていました。
ですが、意を決して関ケ原を去りました。
悔しくて悔しくて。
未練しかない。
死んでも死にきれない。
縁を切るんだと自分に言い聞かせ、関ケ原に関わる全てをシャットアウトしました。

それでも情報は入る。嘆きの声は聞こえる。
離れても離れられない呪いのように付きまとう関ケ原。

そして関ケ原組やその取り巻き、元関ケ原組の嫌がらせは辞めても続きました。

某氏には脅迫紛いのこともされました。

枷を外して新しい道を行こうとせっかくあちらが誘ってくださったのにそちらにも干渉、LINEでの関係者への警告、色々やってきました。

結局、脅された方はビビって、魔女裁判の如く最初から有罪ありきな軍議によりワシを追い出しました。
最初に話したのにね。いざ自分たちがスポットの当たる所に立てたら斬り捨てたね。
関ケ原を辞めさせておいて都合悪くなったら斬り捨てたね。
おもてなしの仕方も知らなかった人たち。
最初はワシの真似から入ったのにね。
ワシの活動すべて否定し、生きてきた証全て否定し、それを受け入れたら考えてやらなくもないと…
『やらなくもない』
人の活動場所奪っておいてね。
信じたワシが馬鹿でした。

ついでに愚痴りますね。
借りパクした物返して欲しいな。
追い出した人間が贈った物よく使えますね。
地域を盛り上げたいと言いつつ、三館解説に一人も出て来ないってどういうことですかね。
一般参加もしていなかったですよね。
結局目立ちたいだけじゃないか、関ケ原と一緒だ。
勉強する気あるのかな?
歴史知識ゼロ居たけど何したいのかな?
写真撮られるだけで満足ということですかね?

貴殿方がワシを否定するのなら、ワシも貴殿方を否定します。
人の一人の人生を否定するってそういうことですよ。

ワシはね、武将隊は演技力、パフォーマンス力、歴史知識は必須だと思っております。
特に歴史知識は絶対!!
その方のお名前を背負うんです。その方の人生を背負うんです。
自分がしたことがその方を嫌う原因になることだってあるんです。
甲冑を着れば無条件に好かれるなんてことはありません。
コスプレして、写真撮られて、ホストクラブの如くお話していれば良いというものではないのです。

だからワシは怒ります。
そして歴史人物を貶す人も怒ります。
勉強したら自分が知る人物像が正しいとは限らないことくらい分かります。
愚弄することがどんなに失礼なのか、それすら分からない人が人前に出ることなど許されません。
ワシは誇りを持ってやってきました。
入口の時点で既に嫌われているうちの殿です。どんなに罵られても毎週在ることから始めました。
覚悟してやってきました。

だから怒るの。

でももう活動する地がない。
殿のことを伝えていけない…

だから今は研究に力を入れてます。
いつか本を出すんだ。

さて、ちょっと疑問が出ました。
豊公伏見城ノ圖
文禄三年正月三日に命じられた(でいいのかな?)、二月一日より始める。とありますが、筑前中納言と記載があるんですよね。
筑前中納言て秀秋公しかいないですよね?
秀秋公の小早川家養子入りが1594年の11月なので、筑前だとおかしくないですか?
まだ丹波中納言ですよね。

小早川筑前守の記載があるので隆景さんが権中納言になる(1595年8月)以前だとは思うのですが…

何時の図なのでしょうか?
秀秋公の屋敷は記載の通りでよいのですかね?

御香宮神社が秀秋公屋敷跡だと言われておりますが、神社の前に黒田節誕生の地の看板がありました。

黒田節に出てくる福島正則と母里太兵衛の呑み比べは福島屋敷で行われたと聞きます。
福島屋敷はもっと北ですよね?

バスガイドさんが御香宮神社辺りに黒田家の屋敷がありました、だから黒田節の~と言われましたが黒田家屋敷ぃ?
いやいや、小早川屋敷では?
少なくとも豊公伏見城ノ圖は筑前中納言ですよ。

うーん…何故黒田節誕生がここになった。


御香宮神社の場所は昔から御香水が湧いているわけですが、秀吉様が鬼門封じに神社動かしました!って…
水…
水は移動しませんよ。

水の湧くその地に秀秋公の屋敷を置くということは、豊臣一族に特別な水の守りをさせたと考えていいですよね。
何の為?
神社側としては移転したくなかったですよね、水置いて。

大坂の陣で豊臣がなくなると神社は現在の地に帰ってくるのですよね。
小早川伏見屋敷はもう無いわけですし、神社からしたら水の所に帰りたいですよね。

小早川屋敷の跡の欠片くらいないかと思い行ってみたのですが、めっさ葵紋だし…

本当に御香宮神社が小早川秀秋公屋敷なのかな?と疑問に思ったのでした。





何年ぶりでしょうか。
一応生きてます。

あれから三年。
仲間から浴びせられた『死ね』という言葉は何時まで経っても消えず、鬱はいまだに続いています。
笑って仲間に死ねと言えるその精神、ワシは何をしたのだろうか、沢山考えました。
でも答えは出てきませんでした。

あれから関ケ原組には嫌がらせの数々を受けました。
自分たちの手ではやらないのです。
ファンの子、追っかけ、都合良く使える駒にやらせる。
裏でこそこそ色々やられ三年、ネットに沢山の悪口を書かれました、実際に面と向かっても言われました。
ブロックしたら別アカでお前を監視してやるとも脅されました。
道を歩いていたら通せんぼなどの露骨な嫌がらせもされました。
横を通ればくすくす笑ったり、ワシに直接やらず、仲良くしてくれた子を攻撃してきたりもしましたし、あいつとは付き合わない方が良いとLINEで流されたりもしました。
心身ともに疲弊し、ついにまともに動けない状態になりました。

武将隊としての誇りはなく、歴史人物に敬意もなく、土地への感謝も無い。
その武将を名乗ることの責任を微塵も感じていない。名乗れば無条件に持ち上げてもらえるくらいの感覚。
ただ、女の子が騒いでくれる。囲まれて撮影会が出来る。かっこいい、綺麗と褒め称えてくれる。
そういうのが気持ち良い。
関ヶ原で活動するだけで箔が付く。
ただそれだけでやっていて、歴史知識は無いし、観光案内も出来ない。武将へも土地へも感謝も無い。
そんなやつらに、何年もかけて関ケ原で活動出来る土台を作り、皆で楽しめるよう関ケ原組を作った、その全てを奪われたことはワシの人生その物を奪われたも同然で、怨み怨み怨み続けました。
そして壊れ今にいたります。

ただ無闇に刀を振るのは殺陣ではありません。
刀の知識、基本、そんなことも学ばない、学ぼうとしない、それで人に殺陣を教えるなど愚行の極み。
材質が何であろうと刀は人を殺せます。
そんなことも理解せず殺陣が出来ると豪語する。
その程度の人たち。

関ケ原にいる武者は自分らだけしか許せないのでしょう、他者排除や縄張り意識を露骨に表し、自前甲冑武者が来れないよう、裏で画策もしていたと聞いております。
関ケ原から来るなと言われた。と。
そんな権利は無いはずなのに、何様なのでしょうか。

自警団と思っているとも聞きましたが、何から守るのでしょうか。
関ヶ原は守らねばならぬほど危険な所なのですか?違いますよ。
寧ろ自分たちが『シマ』意識撒き散らして荒らしてますよね。

どの人もみんなボランティア武者です。
同じ立場。
偉いとか正義とかそんなのありません。

ただただ悔しいです。
ワシは武将隊が好きです。
お芝居も好きです。
歴史も好き、歩く年表とか言われます。 
観光案内も好きです。
大好きな関ケ原で大好きな歴史を語り、愛する武将を語り、歴史が好きな人たちと共有する。
これが出来ることが本当に幸せで、関ケ原で活動出来ることが嬉しくて堪らなかった。

全て奪われました。
もう芝居も出来ません。
舞台に立つことも出来ません。
一年に一度の合戦まつりですら奪われました。

この三年間どれだけ泣いたでしょうか、一回死にかけてもみました。
泣いて暴れて、その度にくいしばって一人で出来ることを考えました。
いつも全力疾走して迷走してました。
体内に爆弾抱えて走ってました。
心身ガリガリ削られ、命削ってそれでも走って出来ること探してました。

動けなくなりました。

ただ好きなことしたくて、皆で歴史を楽しみたかっただけですのにね…
最初はそうやって沢山の人が居たのに…
何でこんなになっちゃったのでしょう…


 こんばんは。どうも今年はついてない鍵助です。

 ダニに刺されました。
 ペリッと剥がしました。えぇ、ペリッと。

 ダニなんて見たことなかったんです。
 剥がしたら皮膚内に欠片が残るから剥がすというか、取ったら駄目だと知識では知っていたのですが剥がしました。
 まさかそれがダニなんて思いもしなかったのですよ。

 ワシ、兎に角虫が駄目なんです。
 虫がくっついているのを見た瞬間にフリーズ。
 一刻も早く取ることだけを考えてペリッと剥がしました。

 別に藪の中とか、山に行ったわけではないのですよ。
 ちょっと田舎の公園にいただけなのでダニなんて思わなかったのです。
 ちょっと変わった虫が付いているくらいにしか思っていませんでした。

 しかし剥がした時にブチッと嫌な音がしたんですよ。
 その瞬間、こいつしっかりくっついていたんだな。もしかして何か皮膚内に残った?と思考がいき、恐る恐る見れば鋏の様な口。その姿はバルサンで見るようなダニのイラストによく似たやつ。

 マダニ…だったりする?

 ((((;゜Д゜)))

 やべ。死亡フラグ立った。

 沖田さんの畳で死ぬなんてとかそんな領域じゃねぇ!!
 武者が虫で死ぬとか笑えねぇ!!

 真剣に身辺整理しましたよ。
 まぁ、一回しているから簡単に出来るのですがね。

 公園に居た時に刺されたとして、気づいたのがだいぶ後。
 体調は特に問題ない。
 これなら大丈夫か?

 殆んど寝れないまま翌日病院へ。

 マダニではなかったのですがダニでした。
 そして案の定皮膚内に欠片が残っていた。
 グリグリえぐられながら取っていただきましたよ。グリグリえぐられながら。 


 一、少し暑くなったらダニはいると思え。
 一、てんとう虫サイズの虫は全てダニだと思え。
 一、田舎には山でなくてもダニがいると思え。

 これが今回の教訓です。


 ダニはタバコor線香を使って虫を焼く方法で取ります。
 ライターで焼くとかありますが、それやると人も火傷するのでよくない。

 史跡巡りをする時は持っていききましょうね。山蛭もこれで取れますし。

 松尾山には蛭居ますよ。
 去年は笹尾山にも出ましたし。

 ワシの様に剥がすと皮膚内に欠片が残り感染症の危険があります。

 これがマダニなら死亡率上がります。

 ダニっつたって、見たことなきゃ分からんですわ。
 取り敢えずてんとう虫サイズの茶色いのとか、黒いのが付いていたらダニと思えばいいんじゃないかな。

 剥がしてから気づくよりいいよ。うん。
秀秋公お誕生日おめでとうございます!(*≧∀≦*)

語りたいけど明日は早いので。

今年もプレートに書く名前は「秀秋さまでお願いします」と言えなかったので自分で書き書き。あ!Σ( ̄□ ̄;)曲がった!!

秀秋公5/8誕生説は先生の本を参考にしています。
ただ先生も本文で書いておりますが、孫引きだそうです。
なので真偽はビミョーですがいいじゃないですか。5/8で。こばの日だもの♪
詳しくはまた改めて。

今日は秀頼と淀殿の命日でもあります。400年。
アニメ戦国無双の秀頼良かったよ。

ああいう秀頼いいな。

寝る。




 ケーキOK!

 プレートもバランス悪いけど愛は込めたのでOK!


 よし、明日は秀秋公生誕祭じゃ。



 一人萌え荒ぶります。



 明日は旧暦で豊臣秀頼公と淀の方の400年目の命日。

 昨日は幸村。

 400年ですか。

 秀秋公は433歳ですか。

 多くの武将が450オーバーでお祝いしていることを考えますと若いですなぁ。


 5/8は『こばの日』で秀秋公の誕生日。


 お兄さん前夜祭で既にたぎってます。


 ケーキ写メして守り人さまに送ろうかな。


 秀秋公の誕生日については稲葉殿のご子息の記録より5/8を採用しております。