ワンコとの暮らしに特化してのブログですが、芸能界のある方の、乳癌の苦しいご会見をテレビで拝見して、この場所を借りて、乳癌に襲われた母のこと、書こうと思いました。
同じように苦しまれているたくさんの方に、ほんの少し希望を差し上げられればと言う思いです。
かれこれ35年前ほど、母は、右胸に乳癌を発症いたしました。当事私は大学生になったばかりの夏のことです。母が50才の時でした。
胸の違和感を見つけた母は、家族の誰にも言わず病院に行き、一人で検査をしてもらい、手術の日程を決めてきました。
仕事が忙しい父にも、大学生活に浮かれている私にも何も言わずに、私と父が知ったのは、入院する前日のことです。
驚いた父は、仕事もそっちのけで、病院にすっ飛んで、お医者様に話を聞きに行きました。私はというと、のんきに友達と夏休みのフェリーの国内旅行を楽しんでいたのです。
フェリーが桟橋に帰着すると、そこに父と母が出迎えていて、えっ⁉父の仕事柄、母もいつも一緒に世界をくっついて回っていて、言わばほったらかしの私にしてみたら、何でここに?と驚きでしかありませんでした。母にしてみたら、絶望的な検査結果だったので、もう病院から出られないと思ったのかも知れません。
「明日からね、妙子(母の名前です)入院するから。今から僕は病院に行ってくるから、一緒に帰ってあげてくれる?」
わけがわからず、友達と別れ、母と家に戻りました。家には、きちんとパッキングされた真新しいボストンバックがまるでこれから旅行に行くかのように用意されていたのを覚えいます。もう二度と家には戻れないかもと、検査の結果を聞いた後に、デパートに寄って、入院準備のためのボストンバックをえいっと新調しちゃったそうです。
母が入院したその晩、私と祖母が父の部屋に呼ばれ、母が乳癌であること、あまり良くないこと、母はそれを全部知っていること、そして、母の前で暗い話や癌の話はしないこと、そしてけして涙を流さないことを約束させられました。
ステージがどのくらいで、余命がどのくらいなんてことは聞かされなかったけれど、何しろ35年以上前のこと。治療も術式も今ほど進歩していなく、結局母は、2㎝以上もある乳癌もろとも右乳房全摘出し、脇のリンパ、鎖骨から下の筋肉も全部無くなり、右側が、骨の上にすぐ皮膚と言う状態となりました。若気の至りの私にも、これは相当いけないのではと思うほどの大手術です。
そこからが、母らしくもある術後経過です。
抗がん剤は、1クールやって、苦し過ぎてもっと身体が傷むので、もうやらないと拒否。
リハビリは、痛くて痛くてストレスが溜まる。自分で何とかするから行かないと拒否

「野草のように生きて、野草のように枯れていく」
母がいつも言っている、座右の銘的な言葉。まさにそれを遂行するかのような行動に、
慌てた父は、日本中の身体に良いとされるものをかき集め試し、リンパ浮腫を予防と、腕が動かなくならないためのリハビリのためとに、ゴルフを始めさせました。
楽しい事が大好きな母は、ゴルフならと痛いのをものともせず、ついにはシングルプレイヤーです
鎖骨から下の筋肉が無いので、首回りの大きいお洒落着などは、ボコッと大きく陥没しているのが時々見えてしまうけれど、何事もなかったかのように着て、お洒落を楽しみます
そういう方が、不思議と誰も疑問に思わないものなのだなぁと気がつきました。
わざわざ自分は乳癌患者だったなんてことも言わないし、また、隠すこともしない。
普通。自然。何でもない感じ。
なので、回りは気がつかない方の方が多かったほどです。
術後、無くなった乳房を目たたなくするためにと病院から、レプリカ乳房を母の失った乳房そっくりにオリジナルで作成しているところを紹介していただき、作りに行きました。それはリアルな乳房が、出来上がってきたのですが、「重いわぁ
オッパイってこんなに重かったのかしら⁉重いからずれるし、こっちの方がいいわ!」と、病院を退院するときに病院がくださった、仮乳房としてブラジャーに入れられる、綿で作った乳房形のパットを、ずっと愛用する始末。
私が言うのも何ですが、若かりし母は、とても美人でお洒落で、父も私も亡くなった兄にとっても、自慢の女性でした。で、それは手術後も変わらず。
術後、高齢の姑がいるし、家事のことも考えて、父がお手伝いさんを頼んでくれたけれど、お手伝いさんに慣れていない母は、来る日の前日に、ほぼ徹夜で家を掃除するしまつ。で、『これでは本末転倒……』と結局、お断りしました。
3~4ヶ月ばかり、抜糸、術後検診、抗がん剤投与等々で、病院にはよく通っていたけど、父の仕事へくっついていく事へ復帰し、あれ?病院は?と聞くくらい段々いかなくなって、私が覚えているのは、術後、一年検診の時に、病院にあまりにも来なさすぎと、お医者さんにものすごく叱られたとくさって帰って来た母のことです。
5年生存率50%。そう、言われたと、「じっとしている場合じゃないの!いろんなことやらなくちゃ!」とばかりに母は、猛烈に活動的でした。
母の手術は思ったより長かったのだけど、駆けつけた母の親友が「何も知らなかった…妙子さんに(手術で)何かあったらどうしよう。このままもう会えなかったらどうしよう」とおいおい泣く
のを、父と私とでさんざん慰めているうちに、長かったはずの手術は、あっという間に終わった感じでした😅(笑)
でも、この母のお友だち!本当に素晴らしい方で、母はどれだけ救われたかわかりません。
「オッパイが片方無くて、傷がすごいなんてこと、何にも臆することはないわよ。チビデブハゲと同じ!個性と思えばなんでもないわ!水虫がぐじゅぐじゅの人だって躊躇なく温泉に入ったりしてるし
」とあらゆる言葉を並べて母を励まし、
母の仕事が無いときは、湯治湯治と、温泉に遊びにといつも何事もなかったかのように連れ出してくれました。
右側が鎖骨下の筋肉もほとんど無いのに、ゴルフはシングルプレイヤー、お医者様が眉を潜めるような民間治療をしながら、お洒落を楽しみ、お友だちと温泉旅行に行き、意地悪なんて言わないし、自分にわがままだけど、人にも甘い、私が知っている母は、元気一杯の、生きていること全てが楽しそうで、人生を楽しむだけ楽しんでいる、限りなくステージ4に近いステージ3の乳癌患者なんてこと、家族ですらすっかり忘れてしまいそうになる、普通に、平凡に、何事もなく、自然に生きている人…でした。
それから35年。去年の夏、父を亡くして、あれよあれよと認知症を患った母から「オッパイにゴロゴロしたものがあるの」と突然言われました。
ええーっ⁉忘れてた。母は、ずうーっと昔に乳癌したんだし。お風呂に一緒に入っていたけど、母の胸を触ってチェックはちょっとしてなかったなぁ………
5年生存率50%をクリアしたときは、残りの50%に入れたねぇとばんざーい🙌ってお祝いしたけれど、それからは、お風呂にでも一緒に入らない限り、母が乳房全摘出の乳癌患者だってこと、忘れてた!
わっわー、しこりは大きく二つもあって、検査の結果またまたリンパ節にもしこりが。
何しろ母。乳癌摘出以降とても丈夫で
父が亡くなった後は、健康診断も嫌だと拒否し、ここ10年、インフルエンザのワクチン接種以外は病院にかかったことがなかった……。
あーー、もはやダメだとどっぷり暗くなったのは私。またまたステージ4に限りなく近いステージ3。たちの悪いタイプの癌で、2.5㎝強のしこりが二つもある。もちろん、リンパ節のしこりは転移……。
また、家族が居なくなる。
母の後ろで、説明を聞いている間中、早期発見ができなかったことが悔やまれて、涙が止まらなく……看護婦さんに慰められる私。
で、認知症の母。
検査の説明を一緒に全部聞いた後に、ニコニコ顔で「先生!助けてくれる?」と。先生、顔色ひとつ変えずに「僕も頑張るから妙子さんも頑張ってね」「はい!頑張ります!」と良い返事の母。あら、認知症も悪いばっかりではないじゃない❗
昨年、母86才の夏の出来事です。お医者様に余命を伺いましたが、「5年生存率って言ってもね、ご高齢だしね。」つまり、寿命か癌の悪さで命を落とすのかは、もはや神のみぞ知るということ。わからないってことだ。
ホルモン治療も効かない厄介な癌であったし、高齢で体力の問題から、今回は私と先生とで相談をし、意見の一致で、抗がん剤、放射線は回避することになりました。
35年前の父を思い出し、母の年金の中で出来る範囲内、抗がん剤や放射線をやったつもりになれば高くない!とまたまた、いろいろ調べ、民間療法でいくことになりました。
肺にも陰があり、肺転移の疑いもあるなかの手術で、術後、無意識にリンパ液を流すドレーンという管を三本あるうちの二本も抜いてしまい
やってくれたなと看護師さんと「たちの悪いのは、癌ではなくてたぁた(母のニックネーム)でしょーー!」と私にさんざん叱られ退院後、抜けきらず溜まったリンパ液を太い注射で50本分位抜き
でも、今回は私に引きずられてリハビリに通いましたが、リハの先生からお褒めをいただくほど腕は動き、風邪一つ引かずに一年が経ちました。もちろん、転移の兆しも無しにです。
本当のところ、肺転移の可能性を言われたときは、母の88才の米寿のお祝いはできないと思っていたのです。でも、何事も起こらず、後少し、今月末まで頑張ってくれれば、またばんざーい🙌です。
何だろう。人間の身体って……。生き物の身体って……。
単純に母が丈夫な人かと言うとそうでもないんですよ。若い頃、中心性網膜炎で失明
しかかかったり、軽い心臓病を患ったり、頭痛持ちだったりだったそうです。
健康快進撃は、最初の乳癌手術の後から。
見ていれば、身体にいいものばかり食べているわけでもなく、父が用意しないと、民間療法のサプリメント的なものなんて、自分じゃ飲まないし。ある意味、ワガママ。
私の兄である一人息子を事故で(享年33才)突然亡くし、難しい姑と同居し、最愛の父は、病気発覚後、献身的な看病もむなしく一ヶ月で亡くなり……。ストレスの無い生活をしてきたかと言えば、そんなとこも全くない、悲しすぎることも一杯ありのストレスばかりの人生だった時もありました。
何が癌から母を守ってるのだろうと、不思議に思うのです。
もちろん、腕のいい頭の良い信頼できるお医者様に出逢えたこと!これは、もう母の運の力でしか思えないのですが。
もう一つ思うのは、母に惚れ込んだ、父の絶対的な愛。世界を敵に回しても、父は、母の味方だったと思います。だから、母は、他人にとても優しい。ワガママはワガママですけど、嫌みや悪口を私は母からは聞いたことがない。(私ときたら母に意地悪なこと言っちゃったりしてるんですけど……反省です……)
母のために稼ぎ、母のために偉くなり、全てを母に捧げた父の人生だったから、何が起こっても、意地悪されても、そんな父がいるから母は、ストレスにならなかったのでしょうか?
あとは、何がそうさせるか、ひょうひょうとした母の性格か……。
そういえば、あの難しい姑ともいつもニコニコ接していて、母の嫌みの応酬なんて見たことがなかったので、てっきり祖母は優しいタイプの姑で、うちほど仲の良い嫁姑はいないなんて思ってたくらいです。
母が父の仕事について留守がちになり、祖母と二人で暮らすようになってから、血の繋がっている私の方が、祖母の悪口雑言に精神やられそうになったくらいです。祖母は凄かった❗父が愛するものには、孫の私にさえ嫉妬して、攻撃してくるのですから。
そんな姑と、父の仕事を一緒にする前までは、何十年もサザエさん一家のようにくらしていたのですからねぇ。
母が落ち込んでるって思ったのは、兄の死はもちろんのこと、それ以上に父の死。絶対的な存在の父が亡くなったときは、かなり長い間立ち直れずにいたように思います。仕事もなかったので、なおさらかもしれません。
でも、認知症が母を助けてくれました。長生きして頑張っている人への神様からのご褒美。亡くなった大切な人への、どうにもならない悲しい気持ちが、認知症のお陰で薄まったような感じなのです。
今年の初夏には、階段を転げ落ちて、昨年切った乳癌の方の左肘粉砕骨折です。これもリハの先生に誉められほどの回復でした。普通なら、もう腕が動かせない。痛い痛いと騒ぐところですが……また、母は何事もなかったかのように復活しました。
これが、そんな母の乳癌闘病記です。
母が二度も、悪性と言われた癌を患い、こんな大怪我をしても、余命を越えて頑張れるのは、何でだろう。
人間の身体は、本当に複雑で難しいものだと思うけれど、精神も複雑に関係してるのではと思ってならないのです。
母を見ていて思うのは、母は、先のことも昔のことも見ていなくて、今を見ているように思うのです。今しか見ていない。今をどのように無事に、幸せに暮らしていくか……人を恨まずうらやまず……
「野草のように生きて、野草のように枯れていく」
もしかしたら、それが母の克服方なのかなと。
こんな事が起こっている人もいる。絶望的なことでも、何だか頑張ってる人がいる。そんなことを少しでも感じていただけたら幸いです。
母は、今日も元気にワンコの遊び相手に励んでいます❗
優しいワンコたちと今の楽しいひとときに満足しながらです
実は昨日、ワンコのう⚪こ💩を踏んで、部屋中歩き回った母を、めちゃくちゃ怒ってしまいました………認知症なのでしょうがないと思っているはずの私、ぶっちぎれた感じです。母の足元にするワンコもワンコですけどね
でも、今朝起きてくれば、全く何もなかったかのようニコッとおはよう☀と母。
『病は気から』頭にこの言葉がよぎりました。
今日からまた、母の一日一日が続いていきます。どこまで続いていけるかな。
ぶっちぎれながら(笑)、私も一緒に頑張っていこうと思います。


同じように苦しまれているたくさんの方に、ほんの少し希望を差し上げられればと言う思いです。
かれこれ35年前ほど、母は、右胸に乳癌を発症いたしました。当事私は大学生になったばかりの夏のことです。母が50才の時でした。
胸の違和感を見つけた母は、家族の誰にも言わず病院に行き、一人で検査をしてもらい、手術の日程を決めてきました。
仕事が忙しい父にも、大学生活に浮かれている私にも何も言わずに、私と父が知ったのは、入院する前日のことです。
驚いた父は、仕事もそっちのけで、病院にすっ飛んで、お医者様に話を聞きに行きました。私はというと、のんきに友達と夏休みのフェリーの国内旅行を楽しんでいたのです。
フェリーが桟橋に帰着すると、そこに父と母が出迎えていて、えっ⁉父の仕事柄、母もいつも一緒に世界をくっついて回っていて、言わばほったらかしの私にしてみたら、何でここに?と驚きでしかありませんでした。母にしてみたら、絶望的な検査結果だったので、もう病院から出られないと思ったのかも知れません。
「明日からね、妙子(母の名前です)入院するから。今から僕は病院に行ってくるから、一緒に帰ってあげてくれる?」
わけがわからず、友達と別れ、母と家に戻りました。家には、きちんとパッキングされた真新しいボストンバックがまるでこれから旅行に行くかのように用意されていたのを覚えいます。もう二度と家には戻れないかもと、検査の結果を聞いた後に、デパートに寄って、入院準備のためのボストンバックをえいっと新調しちゃったそうです。
母が入院したその晩、私と祖母が父の部屋に呼ばれ、母が乳癌であること、あまり良くないこと、母はそれを全部知っていること、そして、母の前で暗い話や癌の話はしないこと、そしてけして涙を流さないことを約束させられました。
ステージがどのくらいで、余命がどのくらいなんてことは聞かされなかったけれど、何しろ35年以上前のこと。治療も術式も今ほど進歩していなく、結局母は、2㎝以上もある乳癌もろとも右乳房全摘出し、脇のリンパ、鎖骨から下の筋肉も全部無くなり、右側が、骨の上にすぐ皮膚と言う状態となりました。若気の至りの私にも、これは相当いけないのではと思うほどの大手術です。
そこからが、母らしくもある術後経過です。
抗がん剤は、1クールやって、苦し過ぎてもっと身体が傷むので、もうやらないと拒否。
リハビリは、痛くて痛くてストレスが溜まる。自分で何とかするから行かないと拒否

「野草のように生きて、野草のように枯れていく」
母がいつも言っている、座右の銘的な言葉。まさにそれを遂行するかのような行動に、
慌てた父は、日本中の身体に良いとされるものをかき集め試し、リンパ浮腫を予防と、腕が動かなくならないためのリハビリのためとに、ゴルフを始めさせました。
楽しい事が大好きな母は、ゴルフならと痛いのをものともせず、ついにはシングルプレイヤーです

鎖骨から下の筋肉が無いので、首回りの大きいお洒落着などは、ボコッと大きく陥没しているのが時々見えてしまうけれど、何事もなかったかのように着て、お洒落を楽しみます
そういう方が、不思議と誰も疑問に思わないものなのだなぁと気がつきました。わざわざ自分は乳癌患者だったなんてことも言わないし、また、隠すこともしない。
普通。自然。何でもない感じ。
なので、回りは気がつかない方の方が多かったほどです。
術後、無くなった乳房を目たたなくするためにと病院から、レプリカ乳房を母の失った乳房そっくりにオリジナルで作成しているところを紹介していただき、作りに行きました。それはリアルな乳房が、出来上がってきたのですが、「重いわぁ
オッパイってこんなに重かったのかしら⁉重いからずれるし、こっちの方がいいわ!」と、病院を退院するときに病院がくださった、仮乳房としてブラジャーに入れられる、綿で作った乳房形のパットを、ずっと愛用する始末。私が言うのも何ですが、若かりし母は、とても美人でお洒落で、父も私も亡くなった兄にとっても、自慢の女性でした。で、それは手術後も変わらず。
術後、高齢の姑がいるし、家事のことも考えて、父がお手伝いさんを頼んでくれたけれど、お手伝いさんに慣れていない母は、来る日の前日に、ほぼ徹夜で家を掃除するしまつ。で、『これでは本末転倒……』と結局、お断りしました。
3~4ヶ月ばかり、抜糸、術後検診、抗がん剤投与等々で、病院にはよく通っていたけど、父の仕事へくっついていく事へ復帰し、あれ?病院は?と聞くくらい段々いかなくなって、私が覚えているのは、術後、一年検診の時に、病院にあまりにも来なさすぎと、お医者さんにものすごく叱られたとくさって帰って来た母のことです。
5年生存率50%。そう、言われたと、「じっとしている場合じゃないの!いろんなことやらなくちゃ!」とばかりに母は、猛烈に活動的でした。
母の手術は思ったより長かったのだけど、駆けつけた母の親友が「何も知らなかった…妙子さんに(手術で)何かあったらどうしよう。このままもう会えなかったらどうしよう」とおいおい泣く
のを、父と私とでさんざん慰めているうちに、長かったはずの手術は、あっという間に終わった感じでした😅(笑)でも、この母のお友だち!本当に素晴らしい方で、母はどれだけ救われたかわかりません。
「オッパイが片方無くて、傷がすごいなんてこと、何にも臆することはないわよ。チビデブハゲと同じ!個性と思えばなんでもないわ!水虫がぐじゅぐじゅの人だって躊躇なく温泉に入ったりしてるし
」とあらゆる言葉を並べて母を励まし、母の仕事が無いときは、湯治湯治と、温泉に遊びにといつも何事もなかったかのように連れ出してくれました。
右側が鎖骨下の筋肉もほとんど無いのに、ゴルフはシングルプレイヤー、お医者様が眉を潜めるような民間治療をしながら、お洒落を楽しみ、お友だちと温泉旅行に行き、意地悪なんて言わないし、自分にわがままだけど、人にも甘い、私が知っている母は、元気一杯の、生きていること全てが楽しそうで、人生を楽しむだけ楽しんでいる、限りなくステージ4に近いステージ3の乳癌患者なんてこと、家族ですらすっかり忘れてしまいそうになる、普通に、平凡に、何事もなく、自然に生きている人…でした。
それから35年。去年の夏、父を亡くして、あれよあれよと認知症を患った母から「オッパイにゴロゴロしたものがあるの」と突然言われました。
ええーっ⁉忘れてた。母は、ずうーっと昔に乳癌したんだし。お風呂に一緒に入っていたけど、母の胸を触ってチェックはちょっとしてなかったなぁ………
5年生存率50%をクリアしたときは、残りの50%に入れたねぇとばんざーい🙌ってお祝いしたけれど、それからは、お風呂にでも一緒に入らない限り、母が乳房全摘出の乳癌患者だってこと、忘れてた!
わっわー、しこりは大きく二つもあって、検査の結果またまたリンパ節にもしこりが。
何しろ母。乳癌摘出以降とても丈夫で
父が亡くなった後は、健康診断も嫌だと拒否し、ここ10年、インフルエンザのワクチン接種以外は病院にかかったことがなかった……。あーー、もはやダメだとどっぷり暗くなったのは私。またまたステージ4に限りなく近いステージ3。たちの悪いタイプの癌で、2.5㎝強のしこりが二つもある。もちろん、リンパ節のしこりは転移……。
また、家族が居なくなる。
母の後ろで、説明を聞いている間中、早期発見ができなかったことが悔やまれて、涙が止まらなく……看護婦さんに慰められる私。
で、認知症の母。
検査の説明を一緒に全部聞いた後に、ニコニコ顔で「先生!助けてくれる?」と。先生、顔色ひとつ変えずに「僕も頑張るから妙子さんも頑張ってね」「はい!頑張ります!」と良い返事の母。あら、認知症も悪いばっかりではないじゃない❗
昨年、母86才の夏の出来事です。お医者様に余命を伺いましたが、「5年生存率って言ってもね、ご高齢だしね。」つまり、寿命か癌の悪さで命を落とすのかは、もはや神のみぞ知るということ。わからないってことだ。
ホルモン治療も効かない厄介な癌であったし、高齢で体力の問題から、今回は私と先生とで相談をし、意見の一致で、抗がん剤、放射線は回避することになりました。
35年前の父を思い出し、母の年金の中で出来る範囲内、抗がん剤や放射線をやったつもりになれば高くない!とまたまた、いろいろ調べ、民間療法でいくことになりました。
肺にも陰があり、肺転移の疑いもあるなかの手術で、術後、無意識にリンパ液を流すドレーンという管を三本あるうちの二本も抜いてしまい
やってくれたなと看護師さんと「たちの悪いのは、癌ではなくてたぁた(母のニックネーム)でしょーー!」と私にさんざん叱られ退院後、抜けきらず溜まったリンパ液を太い注射で50本分位抜き
でも、今回は私に引きずられてリハビリに通いましたが、リハの先生からお褒めをいただくほど腕は動き、風邪一つ引かずに一年が経ちました。もちろん、転移の兆しも無しにです。本当のところ、肺転移の可能性を言われたときは、母の88才の米寿のお祝いはできないと思っていたのです。でも、何事も起こらず、後少し、今月末まで頑張ってくれれば、またばんざーい🙌です。
何だろう。人間の身体って……。生き物の身体って……。
単純に母が丈夫な人かと言うとそうでもないんですよ。若い頃、中心性網膜炎で失明
しかかかったり、軽い心臓病を患ったり、頭痛持ちだったりだったそうです。
健康快進撃は、最初の乳癌手術の後から。
見ていれば、身体にいいものばかり食べているわけでもなく、父が用意しないと、民間療法のサプリメント的なものなんて、自分じゃ飲まないし。ある意味、ワガママ。
私の兄である一人息子を事故で(享年33才)突然亡くし、難しい姑と同居し、最愛の父は、病気発覚後、献身的な看病もむなしく一ヶ月で亡くなり……。ストレスの無い生活をしてきたかと言えば、そんなとこも全くない、悲しすぎることも一杯ありのストレスばかりの人生だった時もありました。
何が癌から母を守ってるのだろうと、不思議に思うのです。
もちろん、腕のいい頭の良い信頼できるお医者様に出逢えたこと!これは、もう母の運の力でしか思えないのですが。
もう一つ思うのは、母に惚れ込んだ、父の絶対的な愛。世界を敵に回しても、父は、母の味方だったと思います。だから、母は、他人にとても優しい。ワガママはワガママですけど、嫌みや悪口を私は母からは聞いたことがない。(私ときたら母に意地悪なこと言っちゃったりしてるんですけど……反省です……)
母のために稼ぎ、母のために偉くなり、全てを母に捧げた父の人生だったから、何が起こっても、意地悪されても、そんな父がいるから母は、ストレスにならなかったのでしょうか?
あとは、何がそうさせるか、ひょうひょうとした母の性格か……。
そういえば、あの難しい姑ともいつもニコニコ接していて、母の嫌みの応酬なんて見たことがなかったので、てっきり祖母は優しいタイプの姑で、うちほど仲の良い嫁姑はいないなんて思ってたくらいです。
母が父の仕事について留守がちになり、祖母と二人で暮らすようになってから、血の繋がっている私の方が、祖母の悪口雑言に精神やられそうになったくらいです。祖母は凄かった❗父が愛するものには、孫の私にさえ嫉妬して、攻撃してくるのですから。
そんな姑と、父の仕事を一緒にする前までは、何十年もサザエさん一家のようにくらしていたのですからねぇ。
母が落ち込んでるって思ったのは、兄の死はもちろんのこと、それ以上に父の死。絶対的な存在の父が亡くなったときは、かなり長い間立ち直れずにいたように思います。仕事もなかったので、なおさらかもしれません。
でも、認知症が母を助けてくれました。長生きして頑張っている人への神様からのご褒美。亡くなった大切な人への、どうにもならない悲しい気持ちが、認知症のお陰で薄まったような感じなのです。
今年の初夏には、階段を転げ落ちて、昨年切った乳癌の方の左肘粉砕骨折です。これもリハの先生に誉められほどの回復でした。普通なら、もう腕が動かせない。痛い痛いと騒ぐところですが……また、母は何事もなかったかのように復活しました。
これが、そんな母の乳癌闘病記です。
母が二度も、悪性と言われた癌を患い、こんな大怪我をしても、余命を越えて頑張れるのは、何でだろう。
人間の身体は、本当に複雑で難しいものだと思うけれど、精神も複雑に関係してるのではと思ってならないのです。
母を見ていて思うのは、母は、先のことも昔のことも見ていなくて、今を見ているように思うのです。今しか見ていない。今をどのように無事に、幸せに暮らしていくか……人を恨まずうらやまず……
「野草のように生きて、野草のように枯れていく」
もしかしたら、それが母の克服方なのかなと。
こんな事が起こっている人もいる。絶望的なことでも、何だか頑張ってる人がいる。そんなことを少しでも感じていただけたら幸いです。
母は、今日も元気にワンコの遊び相手に励んでいます❗
優しいワンコたちと今の楽しいひとときに満足しながらです
実は昨日、ワンコのう⚪こ💩を踏んで、部屋中歩き回った母を、めちゃくちゃ怒ってしまいました………認知症なのでしょうがないと思っているはずの私、ぶっちぎれた感じです。母の足元にするワンコもワンコですけどね

でも、今朝起きてくれば、全く何もなかったかのようニコッとおはよう☀と母。
『病は気から』頭にこの言葉がよぎりました。
今日からまた、母の一日一日が続いていきます。どこまで続いていけるかな。
ぶっちぎれながら(笑)、私も一緒に頑張っていこうと思います。



足腰に優しい芝生や、ウッドチップの上を、堂々とノーリードで、走らせてあげられる!
朝5時前にご見捨てに外に出てみたら、ちょっと涼風たっていて、おっ、早朝散歩いいじゃない!と無理矢理起こして連れ出したら、ほんの5分歩いただけで、小さなジジが全身でハァハァと



、たった一日、ちょっとだけ暑さしのげるナイトタイムにほんの小一時間だけしか連れていってあげられなかった……
なんて呟いたら、しら~とした目の夫と娘………
連れていってやりたい
とテンションばかりが上がってしまう
ワガママな性格だなぁ私……

!

と、私を囲んでペッタリくっついて昼寝をしている我が家のワンコたちを見ながら、ワンコたちの想いを想像しました。
』
です❗



そると M.シュナウザー(ソルト&ペッパー) ♀ 1才
行くと、元気に身体の大きい他のワンコと遊んでいて、それが少々天然な感じ😅💦(笑)倒されても、噛みつかれても、反撃にワンテンポあって😅見ているとついニコニコしてしまう私がいました。





