between two stools

between two stools

between real and fake

というvoicyでのラジオでの若松英輔さんの教えに沿って実行してみる。

若松さんは「読むこと」と「書くこと」は表裏のはずなのに後者をしていない人は多い、もっと書くべき、ということを自著でも言っていたように思う。

「読まなきゃ」と思っていたときに「書けばいい」と知ったときには気持ちが楽になった記憶がある。


最近、『「聴くこと」の力』(鷲田清一)を読んでいたところでもあり、voicyのラジオの内容は非常にタイムリーで関連する気がした。

(ただし、「読むこと」と「書くこと」を、「聴くこと」と「話すこと」の関係に置き換えることは一見可能に見えるが、聴くのも話すのも基本的には(リアルタイムにおける)他者を前提としている。ラジオを聴くのであったり、独り言を言っているなら「読むこと」「書くこと」と近接するが、それらは例外であり、やはり同列には語れないだろう。)


自分は、人の話にじっと耳を傾けることが苦手で、でもそんな自分が嫌で、鷲田清一の著書を読んでいる。どうやったら「聴く」ができるようになるだろう。「聴く」とは何か。

鷲田著書はビジネス書ではないのでもちろん上っ面のテクニックなど一切書かれていない。

ひとつ今思うのは、自分が「話せない」と感じるのは、「聴いてもらえないのではないか」という不安があるときだということ。

「聴いてもらえる」という安心感はとんでもなくありがたく感じる。

「あのとき、あの人に、聴いてもらえたなぁ」という温かい感覚は今でも強く残っている。それぐらい貴重なことだったのだ。


だからこそ、自分が「聴く側」をうまくできないことが恥ずかしいし、申し訳ない気持ちになるのだ。

つまらない話に退屈してイライラしてしまう。なんとか面白い話を聞き出そうと突っ込んだことを質問してしまう。ツッコミを入れて茶化してしまう。関連する自分の話をしようとしてしまう。


なんで「聴く」ができないんだろう。


『水中の哲学者たち』(永井玲衣)に、人の話を聴くのがうまいと皆に尊敬されている人がいたが、実はその人いわく「聞いていることをほとんど何も理解していない」のだということを知って驚く話が出ていた気がする。

(鷲田著書のことを知ったのも永井さんの本の中である)


鷲田著書では、真に「聴くこと」の難しさ、しんどさが語られていたと思うが(さっきから、手元にないので著書の引用が正確にはできないのだが)、一方で、永井さんのエッセイからは「聴くこと」をそんなに難しく考えなくても(ハードルを上げなくても)、もっと気楽でいいんだというメッセージを受け取ってもいい気がする。


そういえば、ある人から「人の話を聴くのが上手い」と褒められたことも思い出したが、その人は自分が想いを寄せている人だったのであって、自分の中では「ブーストをかけている状態」であった。

それをあらゆる場所で実践することは困難だし、疲れてしまうので、結局自分は「聴くこと」が苦手なんだなと思うに至っている。


もっと普通に、聴けたらいいのに。

改めて、あらゆる人に「なんでも聴くよ、なんでも話して」と宣言したい。そのうえで、ちゃんと聴けていたか教えてほしい。


反省といってもマイナスのこととは限らない。翻って省みる、過去の出来事を見つめ直すことだ。


昨日は飲み会のための飲み会をした。つまりノーテーマの会合。だからこそ不確定要素が多く自由度が高いわけだが、やはりそのような会は自分は苦手らしかった。


自分の話したいことは山ほどあるはずなのに、それを出すべきか適切がどうかが判断できない。そのため言葉につまる。そうすると誰かが話題を提供する。その話題で、たとえば30分くらいは話すことはできる。しかしこれは自分がしたいことなのだろうか、ということを話しながらも考えてしまうから、その心の声がノイズになって集中できない。集中できない飲み会を俺はなぜ開催しているんだろう、と考えてしまってそれがさらにノイズになる、のエンドレスモードに入り込む。


その点、テーマのある会合は好きだ。何かの打ち上げ。何かの集まりの後の飲み会。誰かの壮行会、歓迎会。ジャズでいうところの「theme」(まさしくテーマ)が常に裏に流れている状態。迷ったら(ロストしたら)、テーマを思い出してそこから展開すればいい。語るべきことはそこにある。


テーマのない飲み会は、ジャズで対比するとフリーインプロに該当するのかもしれないが、インプロでも実は共通目的がある。それはそのバンドやメンバーの共通認識にもよるが、「何か美しいものを出現させたい」「素直な声を吐き出して混ぜ合わせたい」とかそういう音楽としての志向性である。

飲み会はどうなのだろう。「楽しい場を作りたい」。それは広い意味ではそうなのだろうが、楽しいものは人によって違い過ぎる(先の例でいう「美しいもの」も人によって違うかもしれないが、美は客観的評価たりうると私は思うので、やはり明確に違う)。自分にとって楽しい場は、それこそ「素直な声が吐き出されて交わっている」場所だ。それぞれがそれぞれに忖度したり、ポジションを考えたりしないで本当のことを言っている状態。ところがそんなもの望んでいない人のほうが多分多いのだと思う。


結果的に、自分が本当に仲良くなる人たちは、その人といると意図せずにそういう場ができあがってしまう、という人たちだったと思う。


一方でその逆の方向性もある。言葉で語るような本音どころではない、カオスをもたらしてくれる人がいて、自分はその対処に追われている、その状態がランナーズハイをもたらして自分もカオスに取り込まれていくような会合。これはこれで、そこに真実があるような気もしてしまうのだ。


反省のつもりが論を述べてしまった。


やっぱり昨日は昨日でどうしようもなかったきもするし、ベストは尽くしたし、それなりには楽しかったかな。