between two stools

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between real and fake

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突然これになった。


正直、これを言葉にするのもしんどいし、悲しい。


人の前で偉そうに話したり平然と振る舞ったり問題なく生きていそうに見えてるのがつらい。


みんな、自分に対するなんとなくの印象で、持ち上げてくれるし、良く接してくれるが、そのことが騙しているようで申し訳ない。


でも無理して生きることもできない。

とにかくあらゆることがめんどくさい。


かといって死にたくもない。死ぬのはやっぱり怖かった。本当は昨日死んでも良かったのかもしれない。


なんでこんなに辛いんだろうね。


高校生くらいから全く成長していない人間性。

同じことの繰り返し。その場その場で都合よく生きて、身近な人を傷つけて、その繰り返し。

もう少し謙虚におとなしく生きてろよ、と思う。


なんですぐに調子に乗って、自分に酔って、偉そうなことを言うんだろう。

とにかく恥ずかしい。


こんな自分が嫌だから、親にもなりたくないし、部下も持ちたくない。ただただ傷付かず、悪いところがバレず、外面よく生きていきたい。

人と関わるのが怖い。申し訳ない。

それでいて、やらなきゃいけない最低限のことすらできない。


ほんとに愚かな人間だ。

なんでこんな風になってしまったんだろうね。

ごめんね。みんな。

というvoicyでのラジオでの若松英輔さんの教えに沿って実行してみる。

若松さんは「読むこと」と「書くこと」は表裏のはずなのに後者をしていない人は多い、もっと書くべき、ということを自著でも言っていたように思う。

「読まなきゃ」と思っていたときに「書けばいい」と知ったときには気持ちが楽になった記憶がある。


最近、『「聴くこと」の力』(鷲田清一)を読んでいたところでもあり、voicyのラジオの内容は非常にタイムリーで関連する気がした。

(ただし、「読むこと」と「書くこと」を、「聴くこと」と「話すこと」の関係に置き換えることは一見可能に見えるが、聴くのも話すのも基本的には(リアルタイムにおける)他者を前提としている。ラジオを聴くのであったり、独り言を言っているなら「読むこと」「書くこと」と近接するが、それらは例外であり、やはり同列には語れないだろう。)


自分は、人の話にじっと耳を傾けることが苦手で、でもそんな自分が嫌で、鷲田清一の著書を読んでいる。どうやったら「聴く」ができるようになるだろう。「聴く」とは何か。

鷲田著書はビジネス書ではないのでもちろん上っ面のテクニックなど一切書かれていない。

ひとつ今思うのは、自分が「話せない」と感じるのは、「聴いてもらえないのではないか」という不安があるときだということ。

「聴いてもらえる」という安心感はとんでもなくありがたく感じる。

「あのとき、あの人に、聴いてもらえたなぁ」という温かい感覚は今でも強く残っている。それぐらい貴重なことだったのだ。


だからこそ、自分が「聴く側」をうまくできないことが恥ずかしいし、申し訳ない気持ちになるのだ。

つまらない話に退屈してイライラしてしまう。なんとか面白い話を聞き出そうと突っ込んだことを質問してしまう。ツッコミを入れて茶化してしまう。関連する自分の話をしようとしてしまう。


なんで「聴く」ができないんだろう。


『水中の哲学者たち』(永井玲衣)に、人の話を聴くのがうまいと皆に尊敬されている人がいたが、実はその人いわく「聞いていることをほとんど何も理解していない」のだということを知って驚く話が出ていた気がする。

(鷲田著書のことを知ったのも永井さんの本の中である)


鷲田著書では、真に「聴くこと」の難しさ、しんどさが語られていたと思うが(さっきから、手元にないので著書の引用が正確にはできないのだが)、一方で、永井さんのエッセイからは「聴くこと」をそんなに難しく考えなくても(ハードルを上げなくても)、もっと気楽でいいんだというメッセージを受け取ってもいい気がする。


そういえば、ある人から「人の話を聴くのが上手い」と褒められたことも思い出したが、その人は自分が想いを寄せている人だったのであって、自分の中では「ブーストをかけている状態」であった。

それをあらゆる場所で実践することは困難だし、疲れてしまうので、結局自分は「聴くこと」が苦手なんだなと思うに至っている。


もっと普通に、聴けたらいいのに。

改めて、あらゆる人に「なんでも聴くよ、なんでも話して」と宣言したい。そのうえで、ちゃんと聴けていたか教えてほしい。