2023年2月に読んだ本たち | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

繁忙の極み!!

 

・多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』(関口裕昭訳。文藝春秋、2023年。)

2月から3月頭にかけて、多和田葉子の新刊に集中的に取り組んだ。本書は2回通読し、1回目は普通にさらっと読み、2回目は全ての註に目を通しながらじっくりと読んだ。この小説はすごい。魔書と言ってもよい。

 

 

パウル・ツェラン(Paul Celan:1920-1970)という詩人がいる。現在はウクライナに属するブコビナ地方チェルニウツィー出身のドイツ系ユダヤ人の詩人である。本作は多和田がドイツ語で書いた小説を、ツェラン研究者である関口裕昭が180以上の膨大な註をつけながら日本語に翻訳した一冊となっている。

 

 

多和田の小説であるのだが、同時に多和田と関口の共著といってもいいほど翻訳者・編者としての役割が大きい。その註の執拗なまでの詳細さは、例えば、冒頭からして以下の感じである。

 

「もし右に曲がるなら(*4)、陰険な目つきをしたレジ打ちが、哀れみ深い目つきをした同僚と二人で働いている小さなスーパーマーケットが見えてくることだろう。この二人のうちのどちらが彼からお金を受け取るのだろう。スーパーマーケットに入るのは、ロシアンルーレットをすることに等しい。」(5)

*4:右か左かという問題は、色や数と並んで、『糸の太陽たち』の隠れたテーマの一つとなっている。[……]妻のジゼルによれば、ツェランは羊が人間の右側を通り過ぎるか左側を通り過ぎるかによって、幸不幸が決まるという迷信にいつも固執していたという(新約聖書「マタイ伝」25・33を参照)。これはおそらく戦時中の彼の生死を分けた体験にさかのぼる。ツェランは日々過酷な労働を強いられていた労働収容所で「選別」が行われたとき、すなわち広場で点呼が行われ、一方の列がまだ労働者として居残ることができる側、もう一方がもはや労働力とは期待できないのでアウシュヴィッツへ送り込まれる側となったとき、いったんは後者の列に入れられたものの、点呼する将校のすきをついてもう一方に移動した。そうすると一方の列が一人多く、もう一方の列が一人少なくなる。そこでもう一度初めから点呼がやり直しとなるが、彼はまたしてもすきをついて移動する。責任者の将校はそこで肩をすくめ、リストをしまい込み、それ以上の穿鑿はしなかった。こうしてそれぞれの列に並べられた人々は別々の運命をたどった。ツェランはこのようなことを繰り返して、生き延びてきたのだという。親友のフランツ・ヴルムが伝えている話なので、信憑性は高いと思われる。つまり「右」か「左」は、ツェランにとって生死を分ける選択だったわけである。(137)

あらゆる註がこんな感じで、ツェランのことを何も知らない読者に対し、ツェランの詩を換喩している箇所に「元の詩はこうなっています」と示したり、ツェランの伝記的事実を補足したりと、作品そのものとツェランのことを理解するのに大いに助けとなっている。

 

 

これがどういう小説かというと、あまり上手に説明できない。筋らしい筋は特になく、主人公で語り手であるパトリックという人物の内的独白のパートと、中国人らしいレオ=エリック・フーという人物との対話のパートが交互に繰り返される。パトリックは自身のことを「患者」と呼んで三人称的に語ったりもするが、精神的に普通でない人物の内的独白の語りはまあ難しい。どうやら多分死んでしまっているらしい。そしてレオ=エリックも普通の人物ではなく、タイトルの通りに本当に「中国の天使」らしい。この辺りの設定の核心的なことがどこかにさらっと書かれていたように思っており、およよという感じである(2回読んだのに……)。

 

 

だが本題はそこではない。二人の人物を通して語られる、ツェランのこと、言語のこと、詩作のことのとめどない連想が、本作の主眼である。多和田の小説を読む快楽は言葉遊びの海に漂うところにあり、本作も思う存分言葉の海に揺蕩うことができる。

 

「ツェランは様々な地域の鳴禽類(めいきんるい)を翻訳することによって、情け容赦なく声の練習を実行した。ある時はマンデリシタームを、またあるときはディキンスンを、楽しみながらまた自信をもって歌った。もちろんアポリネールも、ミショーも、レパートリーに入っていた。フレーブニコフもマヤコフスキーもツェランの声を酷使することはなかった。その逆である。ツェランは翻訳するとき、自分自身の声をふりしぼって歌った。むしろ彼自身の声が異質なものになったのである。ひょっとすると彼は荷物も持たずにある狭い無我の芸術領域へいっそう奥深くに入っていったために、息の方向を変え、自分の声を後にすることができたのかもしれない。この領域においては狭さが長所であり、空気のかすかな振動ですらアリアの代わりになることができた。」(54)

本作はオペラに対する言及がたくさんあるのだが、歌を歌うことが詩を書くことと重ね合わせて語られている。「詩人の声」という表現は文学研究をやっていた時によく書いた記憶があるのだが、こと詩は「声」と密接に関わっている表現形態である。

 

「歌うことができる限り、歌うべきでしょう。黒丸ガラスの場合、つまりカフカがそうだったんだけれど、結核が彼の咽頭に襲いかかった。作家に声はいらない、書くことさえできればいいと考える人がいるけれど、それは誤りだ」

「もしカフカがその前にスペイン風邪で体力を消耗していなかったら、あんなに早く結核で死んでしまうことはなかった、と祖父は言っていた。パンデミックはツェランから二人の作家を奪った。カフカとアポリネールだ」(82)

本作はコロナ禍に書かれた小説であるというのも重要だ。本作に登場するベルリンもコロナ禍にあり、そのことが前景化はされないが、着実に小説世界に表現されている。

 

 

いつものことながら、多和田の作品を読んでいて深く共感するのは「言語」に対する感性で、本作においてもその魅力を再認識できた。

「芸術とは常にひとつの過剰反応だ。ツェランは多言語性の真ん中で詩作していた。彼は翻訳するだけでなく、自分の翻訳の中で歌っていたとぼくは思う。ルーマニア語で、ロシア語で、フランス語で、ヘブライ語で、英語で、彼は声が出なくなるまで歌った。それが彼の後期の詩作の出発点だった。声を失ったことから始まったんだ」

[……]

「もし望むなら、次に会うときにもう一冊本を貸してあげよう。『詩の媒質としての中国の文字──アーネスト・フェノロサ+エズラ・パウンド芸術論』。この本もツェランは自分の書庫にもっていた。多言語性の観点からこの本はきっと面白いよ。中国語は読める?」

「いいえ」

「問題ないよ。中国語を知らずに漢字を読んだ詩人はけっこういる。たとえばヴィクトール・セガレンがそうだよ」

パトリックは微笑み、自分は異質なものに素手で触れることになるだろうが、これこそ詩作の王道ではないかと考える。(90-91)

 

『エクソフォニー』で多和田がツェランに言及している箇所が、本作の註181にも出てくる。もしかしたらと思って3年前の読書ノートを漁ったら、『エクソフォニー』を読んでいたときに自分も全く同じ個所を書き留めていた。

 

「ツェランの『詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない』という言葉は時々引用されるが、『一つの言語で』という時の『一つの言語』というのは、閉鎖的な意味でのドイツ語をさしているわけではないように思う。彼の『ドイツ語』の中には、フランス語もロシア語も含まれている。外来語として含まれているだけではなく、詩的発想のグラフィックな基盤として、いろいろな言語が網目のように縒り合されているのである。だから、この『一つの言語』というのはベンヤミンが翻訳論で述べた、翻訳という作業を通じて多くの言語が互いに手を取り合って向かって行く『一つの』言語に近いものとしてイメージするのが相応しいかもしれない。」『エクソフォニー』(41)

 

これを受けて、本作のクライマックスはツェランの声と多和田の声が、綺麗に重ね合わされる。

 

「最初に会ったとき。きみは否定の樹(ナイン・バウム)について語ったよね」

パトリックは言う。彼は突然その樹を思いついたことに自分でも驚きを隠せない。一方、レオ=エリックはまるでこのテーマを予想していたかのように黙って頷く。

「そうそう、私のお気に入りの樹なんだよ。「否定」は打ち消しているにもかかわらず、柔らかい言葉だね。「誰でもない者(Niemand)」は透明人間。決して(niemals)先に待ち受けている未来を保証する時は来ないだろう。「どんな砂の芸術もない、どんな砂の本もない、どんなマイスターもいない」という詩は知っているかい?」

「ええ、もちろん。『息の転回』に収録されている。ぼくは『息の転回』を分析するつもりはないけれど、この詩集はツェランの詩作においてコペルニクス的転回として位置づけられるんだ。これなしに『糸の太陽たち』は考えられない」

「じゃあ、きみはこの詩の最後の数行も知っているよね。綴り字が少しずつ抜け落ちてゆき、まずは「雪のなか深く(Tief im Schnee)」とくる。ただしこの三つの単語は続けて書かれている。Tiefimschnee。それからtとschが消えて、新しい語「いーふぃむねー(Iefimnee)」が現れる。それからさらにe、f、m、n、eが消えてハイフンでつながれた三つの綴りからなる語が残る。I-i-e。iieが何を意味するか知っているかい?」

「いいえ」

「そのとおり」

「なんだって?」

「iieというのは、いいえという意味なんだよ」(119-20)

これ、あまりにもよかった。ドイツ語と日本語の奇跡を見たような気がする。「iieというのはいいえという意味なんだよ」という不思議な日本語の文章は、ドイツ語でいったん書かれたものを日本語に訳さないと発生しない。同じく註181に詳しく書かれているツェランの作品についての解説で、「Niege」という言葉がドイツ語では「傾き」「残り」という意味である一方で、フランス語では「雪」という全く別の意味を持っていることを踏まえながら、ダブルミーニング的に使われていることに言及されている。この「雪のなか深く」から「いいえ」へとつながっていく箇所は、多和田がツェランから見つけてきたとびっきりの箇所なんだろうなととても大切に受け止めました。大変素晴らしかったです。

 

・杉本明子ら編『理論と実践をつなぐ教育心理学』(みらい、2019年。)

今月の「教免のため」枠。かなりよかったです。

 

普通に教育心理学は興味関心があり、わりとちゃんと学びたかったしもっとやりたい感がある。

修論は一応アイデンティティ論を書いたので、エリクソンを多少なりとも知っている経験がこの辺を学ぶときに生きていてよい。

 

この教科書は(太字にしている重要語句が多すぎないか?という点はあるが)非常に充実していると同時に読みやすくてよかった。

 

 

・ねことうふ『お兄ちゃんは、おしまい!』(1)-(7)

 

『お兄ちゃんは、おしまい!』第7巻表紙。(C)ねことうふ/講談社・一迅社

 

今期のアニメは兎にも角にも『おにまい』である。俺の観たかった最高の日常系という説すらある。

本作のタイトルの「おしまい」は順当に「お終い」だと思われるが、「お姉妹」「推し妹」という説もあるという言及を見つけて天才だと思った。

 

 

本作の主人公、緒山まひろは飛び級で大学生になった優秀な妹・みはりの研究によって女の子にされる。まひろはエロゲ―を愛する引きこもりのニートであったが、女の子に変身して以降、新しい日常が始まる。

 

特に中学校編が始まってからはお兄ちゃんの社会復帰が目覚ましく、もう元に戻らなくてよくないか?という感じになっている。加えて、原作の巻数が進むにつれて、定期的に漏らすか生えるかする挿話さえやっておけばOKみたいなシステムに行き着いていて笑ってしまった。ジャンルとしてはTSFだけど、わりと普通の女の子日常系になっていて、まあそれはそれで良いんだけどな~!という思いもある。あと、アニメ版では第10話までの放送時点で「薬がきれて身体が男に戻ってしまう」(そしてそれは「生える」と端的に表現できる)という挿話が完全にスルーされていて、アニメ化に際してはやはり問題があると判断されてしまったのか……という思いである。まあアニメ版は横手美智子さんの二人芝居の脚本があまりにもよいのと、演出が洗練されているところとで、全く別個の魅力が生じているので全く不満はない。

 

 

まず言わなければならないこととしては、まひろが可愛い。あんなに外見は女の子女の子して可愛いのに、趣味や言葉遣いは成人男性のそれというギャップで、性癖が狂わされそうな強さがある。そして、女の子になる前から女の子趣味があったんだろうなというのがよくわかる。

 

それはやはり本作の視聴者たる自分もそういうところがあるからだと思っており、本作を通して「俺も女の子になって日常系アニメがやりたかったんだな」という欲望を認識するに至った。そう、『おにまい』は鏡だったのである。