2022年5月に読んだ本たち | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

今月は村上春樹をしっかり読みました。

 

・村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第1部-第3部』(新潮社、1994-95年。Kindle版。)

遅ればせながら『ドライブ・マイ・カー』(監督:濱口竜介、2021年)を観に行った話をどこに書こうかなと思っていたのだが、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』のテクストを購入したので、チェーホフの感想と併せて来月の読書記録につらつらと書いていきたいと思う。非常に素晴らしい映画だったし、アカデミー賞を受賞したのは本当にめでたい。ただ、アカデミー賞を取ったなら10億と言わずにもっと興行収入が伸びてもいいんじゃないのというのはずっと思っていることで、話題のアニメ映画がバンバンヒットを飛ばしている中で、純邦画と呼ぶべき作品がろくに受容されていないという事態に今回初めて気づかされた。まあ、かくいう自分も実写の日本映画を観に行くのなんて何年振りだろうかという状況である。

 

 

『ねじまき鳥クロニクル』の話に戻す。率直に言って、かなり苦しい読書だった。5月の時点で早くも「2022年最もしんどかった本」第1位が内定した感がある。面白いかというとそんなに面白くなく、『カフカ』とか『多崎つくる』とかはかなりエンターテイメントとして成立していたのだなと思わされるハードな小説作品だった。

 

ただ、個人的な好みはさておき、村上春樹のワークスを俯瞰した中でも屈指の重要な作品であるし、戦後日本で書かれた小説としても無視できない重要な作品であるのは間違いない。よくわかっていないこと、どうしてなのか納得できていないこともたくさんあるのだが、これは大切に抱え続けなければならない感慨であり、またその価値のある疑問だろうという直観がある。

 

 

本作の主人公は岡田亨、勤めていた法律事務所を辞めた無職の青年である。スパゲッティを茹でているときにロッシーニ『泥棒かささぎ』序曲の一節を口笛で吹いているときに、知らない女から奇妙な電話がかかってくる。飼い猫が急にいなくなる。こういった奇妙な出来事が積み重なり、妻もやがていなくなる。第1部までは徹底的に喪失のテーマが畳みかけてくる。

 

 

村上春樹の長編小説を読む時は、本筋よりも脱線部分の方にいつも大きな快楽を感じているのだが、本作における脱線部分は、徹底して太平洋戦争の時代にかつてあった(かもしれない)暴力であったため、それがかなりしんどい。悪名高き「皮むき」の拷問を筆頭に、動物に対する虐殺、バットでの撲殺、非武装の民間船に砲撃を仕掛けようとする潜水艦、等々、どこを切り取っても血みどろの暴力の記憶がページを踊る。というわけで、本作の率直な印象は、おぞましいの一言に尽きる。「クロニクル(年代記)」という言葉が端的に表すとおり「今あなたがやった・やろうとしている暴力は、いつかのどこかで別の誰かがやった暴力の繰り返しに過ぎない」というのが、本作が1000ページ以上を費やしてやろうとしていることだと捉えている。そして、この小説の長い長い語りそのものが暴力的であることは言うまでもない。

 

 

自分が何となく本作を好きになれない大きな理由として、主人公の岡田亨くんがとにかく魅力がないのが気になっている。クミコのみならず別の女の子も「お前妊娠させとるやんけ」というのを初めとして、どこまでも受動的にならざるを得ず、大きなものに振り回されているという割には「それお前も悪くないか?」という案件を、さも自分は巻き込まれているだけなのだと語る様子が欺瞞に満ちているような気がする。だからこそ、本作における絶対悪ポジションの綿谷ノボルとの対決でいまいちテンションが乗ってこなかった。綿谷ノボルが間宮中尉の思い出に出てくる皮むきボリスに対応する(こちらは正真正銘の暴力の権化みたいなやべー奴で、生かしておいてはならなかったのだけれど、どうしても殺すことはできなかったというのは納得できる)のだろうなとは思ったものの、なぜ綿谷ノボルが戦後60年(当時)の物語が込められた木製バットでぶん殴られなければならなかったのかがよくわかっていない。

 

 

本作を読んで初めてわかったのは、村上春樹は1995年を境にデタッチメントからコミットメントへと転換したのではなく、大きな歴史を小説世界に取り入れようとする意志はすでに『ねじまき鳥』の時点で用意されていたのだなということである。自分は1995年周辺の『神の子どもたちはみな踊る』『アンダーグラウンド』辺りをやはり愛好しているし重要だと考えているわけだが、「暴力の根元には何があるのか」というテーマが『ねじまき鳥』から始まったというのは間違っていないように思われる。

 

 

あと、本作のテーマとは本質的に関わらないところであるのは承知なのだが、岡田亨くんが1年以上無職でも問題なく食っていけているのがいかにも約30年前という時代状況を反映しており、令和に生きる岡田くんとちょうど同年代くらいの人としてはまったくもって彼の状況を共有できない。なんでもかんでも経済の問題にすればいいというわけではないが、とにかく今の若者は金がないのであり、井戸に籠っている暇があったら仕事を見つけるよな、という感じである。勿論、本作で語られる戦争の記憶と戦後日本の状況は現在でも全く色褪せていないのだが、そういった意味では、経済的状況も内包された令和版『ねじまき鳥クロニクル』が書かれる必要があるのかもしれない。

 

・ジェイ・ルービン『村上春樹と私――日本の文学と文化に心を奪われた理由』(東洋経済新報社、2016年。Kindle版。)

留学中に読んだものの再読。ジェイ・ルービンは『ねじまき鳥』から村上春樹の英訳を始めたこともあり、本書で『ねじまき鳥』の話がそこここに出てくるのが、再読のタイミングとしてドンピシャだったように感じられてよかった。

 

 

著者のルービンは英語圏における村上春樹作品の翻訳者の1人であるわけだが、彼は日本語で春樹を読んで衝撃を受け「わざわざ私のために書かれたかのようだった」という感慨を受ける。何で読んだのかは忘れたのだが、中国や韓国の読者も「これは自分のために書かれた小説だ」と思うらしい。この現象の要因は、高度資本主義社会が煮詰まってくると世界中のどこでも似たような社会状況と文化状況になるから、ということで、何となく「まあそうだろうな」という感じがする。

 

 

もう一つ面白いのが『パン屋再襲撃』に出てくる海底火山の話で、お腹が猛烈に空いている「特殊な飢餓」に悩まされている語り手の夫が、特殊な飢餓の映像として水の中の海底火山のヴィジョンを持ち出す。この海底火山は何の象徴ですか?と学生たちにディスカッションさせたところ、村上春樹本人が「火山は象徴ではない。火山はただの火山だ」と断定する。どうやら村上春樹は空腹になると火山が思い浮かぶらしい(そうですか)。ルービンはこの海底火山を「無意識の中に留まり、いつ爆発して現在の静かな世界を破壊するかもしれないものの象徴」と読んでいるが、あるイメージを一概に何かの象徴と決めつけることではパワーの大半が失われてしまうとして、読者一人ひとりが心の中でイメージを作り上げることを村上本人は妨げないと評価している。

 

 

本書で村上春樹以外によく出てくるのが芥川龍之介と夏目漱石で、漱石は一応そこそこ読んできたつもりだが、芥川はあまりちゃんと触れられていないので、日本近代文学をまた攻めようという時は芥川をよく読むようにしようかなという意気込みである。

 

・CLAMP『カードキャプターさくら クリアカード編』(12)

(C)CLAMP・ShigatsuTsuitachi CO.,LTD./講談社

 

『カードキャプターさくら』は本ブログでも屈指の長期コンテンツであり、2017年にブログを始めてから折に触れて採り上げてきたし、「クリアカード編」も6巻以降の感想は全て書き記されている。「クリアカード編」はなんだか難解であると思って12巻購入後にちょっと置いていたのだが、10巻くらいから読み返して読むととても面白かった。これまで提示されてきた情報が点から面へとなってきており、物語もそろそろまとめの段に入っていくのではないかという予感がある。

 

 

「クリアカード編」における文学作品との間テクスト性(その作品が別作品とどういった関わりがあるか)を改めてまとめると、作品内でも言及されている下敷きとなった文学作品が3つある。1つはイギリス文学より、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』、1つはドイツ文学より、ミヒャエル・エンデ『モモ』。最後の1つは日本文学より、夏目漱石『夢十夜』。『アリス』は少女のアイデンティティ、『モモ』は時間性、『夢十夜』は不思議な夢を主題としており、3作品のそれぞれの要素が「クリアカード編」の物語の基調をなしている。

 

 

作中劇として『二人のアリス』を書いた奈緒子ちゃんが言う「『醒めない夢』ってこわいなって」という感想はかなり本質的で、この言及があるのが非常によかった。『不思議の国のアリス』はご存知の通り夢オチであり、学部3年の時に初めてちゃんと読んだ当時は「夢オチなのかよ」と落胆したりもしたのだが、『アリス』のナンセンスな作品世界と夢オチは今思うとあまりにもフロイト的だなというところである(これを書くにあたり、フロイトが『アリス』に着目したのか、文学側がフロイト理論を『アリス』批評に散々適用したのか、どちらなのかをネットで軽く調べる程度だとわからなかった。すみません、そのうちちゃんと調べます)。

 

 

『アリス』は楽しいメルヘンなファンタジーなどではなく、本質的には怖い話(ヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』(1988)参照)だと思うのだが、どこかの世界線には昼寝から目が覚めず、永遠にワンダーランドを彷徨うアリスもいるのではないかと思う。奈緒子ちゃんは『夢十夜』の感想として「醒めない夢って怖いと思った」と語るが、それは『アリス』にもばっちり当てはまるし、それでもって『二人のアリス』を書いている(中一にして文学的素質を見抜くこの慧眼!)。というわけで、秋穂ちゃんの今までの生の在り方を「夢」としようとしている海渡さんは、『二人のアリス』というフィクション(これも虚構だが、同時に本質でもある)に触れることで、その考え方を早く悔い改めていただきたい。

 

 

今回の巻数は魔法バトル漫画としてもかなり良くて、さくらサイドが「海渡は時間を操る術が使える」と認識すると、海渡サイドの圧倒的優位性が途端に崩れるという構図が鮮やかで素晴らしい。海渡さんがこれまで散々時間を戻して何をやったのかが、遡及的にボコボコ明らかにされていくというところで、「時間を止めて抹消してきたことが物語の結末に向けて全て動き出す」と、モモ(仮称)さんが作品世界の枠を超えて直接読者に語りかけてくる超越的な感じが非常に痺れました。大変よかったです。