棚卸をするためにコンテンツに触れている感さえあります。
・『平家物語』
(C)「平家物語」製作委員会
本当に素晴らしいアニメ作品だった。アニメ史に残るマスターピースであるのは間違いない。
『けいおん!』でお馴染みの山田尚子監督が手掛ける本作は、まごうことなく日常系の系譜に連なる作品としてある。
原作の『平家物語』は軍記物語であり、平家の栄華と没落という歴史のダイナミズム、あるいは華々しい合戦の描写がその中心にある。一方で、アニメ版では平清盛や後白河法皇といったマッチョな男たちに振り回される周辺の弱き人々、重盛、重盛の子どもたち、そして女性たちにフォーカスが当たり、彼ら・彼女らの何気ない・他愛無い日常の様子が愛着を持って描かれる。
『平家物語』のフェミニズム的な視点からの語り直し、というのが本作の特徴を一番端的に言い表わされるように感じるし、本作が第2話に「祇王」の挿話を採り上げたことの重要性を感じずにはいられない(祇王・祇女と仏御前が和解し共に念仏を唱えて往生を遂げた様子は、間違いなく平安末期における女性たちの連帯の事例だ)。だが、僕はただ女性に限定してフォーカスを当てたくはないし、実際に女性だけにフォーカスが当たっていたわけではない。徳子や滋子、祇王や仏御前、白拍子や琵琶法師などの女性たちだけではなく、重盛とその子供たち──維盛、資盛、清経──、敦盛、あるいは安徳天皇といった、(相対的に)弱かった人々に等しく優しい眼差しが向けられていたことを、きちんと指摘しておきたい。
本作の中心に配置されたオリジナルキャラクター・びわは、未来を見通すことができる能力を持ち、物語中盤からは死者を見ることができる能力も受け継ぐ。琵琶を弾き語り、文字通り「全知全能の語り手」として物語世界を駆けまわる彼女は、私たち視聴者の生き写しであることは言うまでもない。だが、私たち視聴者も同様に、平家の者たちの未来が破滅に向かっていることを把握しているのみで、彼らの運命に干渉することはできない。
物語終盤まで、びわは見えるだけで何もできない自分の無力感に思い悩まされる。だが、彼女は、自分が見たもの・一緒にいた人のことを、未来に向かって語り継ぐことはできることに気がつく。加えて「どうか安らかに」と祈り続けることも。亡くなった人たちを弔うということは、どれほど故人のことを思いやり故人のためと主張しても、結局は生きていかねばならない私たち自身のためにやっている行為なのではないか?と正直僕は今でも思っている。以前に引用した『平家物語ハンドブック』にも「歴史も鎮魂も、生きていく私たちのためにある」とある。だが、『平家物語』が今でも古典として長らく生き残り続けていることは、「いなくなってしまった人たちの記憶を語り継ぐ」ことの魔力の証左として受け止めねばならないだろう。
『けいおん!』の第2期の後半では、軽音部唯一の後輩・中野梓(あずにゃん)の視点を通して、先輩たちが皆卒業していなくなってしまうことの寂しさ・悲しさ・名残惜しさと、それに裏打ちされた「だからこそ先輩たちと一緒にいる今の時間を」という、今の尊さ・かけがえのなさ・輝きに強くフォーカスが当たっていたように思われる。『平家物語』も同様の構造をなしており、びわの目を通して平家の人々の<今>の輝きを目の当たりにすることになる。このような本作の特徴を表す言葉として、<今>の今性、という言葉を作ってはみたものの、自分でもいまいち上手く説明ができない。だが、<今>が現在ここにあるということ、たとえ未来がどんな形で待ち受けていようとも、<今>だけは自分の自由にできること。こういった感慨が、本作の主題歌である羊文学「光るとき」で描かれているし、オープニング映像のにこにこ笑う平家の人々の様子に表れているのは間違いない。
「最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても
今だけはここにあるよ 君のまま光ってゆけよ」
羊文学「光るとき」
このサビのメッセージが一番本質的だと思われる。先述の通り、たとえ未来や運命が破滅だったとしても、「今だけはここにある」のだ。その「今」に、君のまま光らなければ、生き残る誰かに自らの生の在り様を語り継いでもらうことさえできない。たとえ未来がどのような形であったとしても、今その瞬間に手にしている、自由にできる今だけは手放してはならない。
・『からかい上手の高木さん3』
『からかい上手の高木さん3』第6話より。(C)S.Y,S/TKG 2022
2018年にアニメオタクになったきっかけが『高木さん』なので、正直義理で観ていた感はある。もう2期くらいから大分マンネリしているのと、高木さんがもはや西片を把握し尽くしているあまり全知全能の神(語り手)のポジションにいてあんまりおもしろくないっていうのもある。まあこんなこと言っていますけど、6月の劇場版も観に行くんですけどね!!!
とはいえ、今期も普通に作品は上質だったし、李依さんと梶さんがめちゃくちゃいいからこの2人の掛け合いはずっと観続けられるというのは間違いない。今期も梶さんは高い声がよく出ていてすごかった。
それにしても、第6話の文化祭回はたいへん素晴らしかった。あんな輝かしい青春の眩しさを見せつけられてしまったら、目が焼かれる。
・『スローループ』
(C)うちのまいこ・芳文社/スローループ製作委員会
良くも悪くも模範的きらら系アニメといった感じなのだが、とにかく恋ちゃんが可愛くて仕方なかった。長らくきらら系作品を観続けているが、恋ちゃんはきらら最可愛ヒロイン説まである。恋ちゃんがお父さんを「釣り中毒」でラインに登録していたところが非常によかった。その描写から本作にハマれた感じがある。
3話くらいまでずっとテンポが悪い、キャラが面白くない、釣りがいまいち楽しそうに見えない、とか色々ぐちゃぐちゃ言っていたのだが、結局恋ちゃんが可愛すぎてドはまりしてしまい、もしかしたら冬クールで一番観返したアニメでさえあるかもしれない。というのも、最後までずっとテンポが微妙に悪かったものの、何か作業をしながら流し見するには最適なテンポだった感じもあるからだ(もっとテンポが悪いと単純に見てられないし、『ごちうさ』や『わたてん』くらいテンポがいいと作業をほっぽって画面に食いついてしまう)。これは完全に私の敗北という感じである。
……さすがに本作を語るのにひよりちゃんと小春ちゃんに全く触れないまま終わるのは良くないか。
ひよりは父親を、小春は母親と弟を亡くしており、再婚によって彼女たちが義理の姉妹関係を取り結ぶことが、果たして本作の本質をなしていたのかというと正直疑問が残る。なんでそんな重たい設定にしたんだろうと未だに思っているのだが、彼女たちが身内を亡くした過去を乗り越え、新しい家族関係の中で日常を立ち上げ直しているのだと、本作をそう読み込んでもいいけど、そこまで読み込めるか?とどうしても思ってしまう。それはなぜかというと、僕の中では最後まで彼女たちがキャラクターから人間へと受肉しなかったからだろうという感じである。それで言うと、本作において唯一キャラクターが受肉したのは恋ちゃんだけ、という話になる。最終話で出てきた「小春日和」の着想はなるほどいいなとなったし、もうちょっとなんかうまくやれたような気もするんだけどなあ。
・『その着せ替え人形は恋をする』
(C)福田晋一/SQUARE ENIX·「着せ恋」製作委員会
正直に言うと個人的な好みにはそこまでハマらなかったのだが、客観的に見て非常に丁寧に制作されたアニメーションであったし、かなり成功したアニメ化であったことは間違いない。主演の石毛さん・直田さんの配置が大変素晴らしいのは言うまでもない。また、次段で論じる『明日ちゃんのセーラー服』とワンセットであるように思えたので、両方をしっかりと観られたのは有意義だった(CloverWorksあまりにも凄すぎるな)。僕はジュジュ様が好きです。
物語の終盤までずっと気になっていたのは、衣装を作る五条くんと衣装を身にまとう女性キャラクターたちの負担が非対称であることにずっと無自覚で行くのか?という問題で、第7話あたりから頭の片隅で留学中に読んだSilvia Federiciが問題提起をし続けていたのだが、第11話で五条くんと喜多川さんがコスプレを共創していく様子が描かれることでこの非対称な印象はだいぶ払拭された。だが、これをもって本作がジェンダー不平等だ!と批判したいわけではなく、むしろ被服を始め家事労働の分野が女性の領域に押しつけられてきた日本のジェンダー環境を改めて意識させられた、ということを申し伝えておきたい。
(C)福田晋一/SQUARE ENIX·「着せ恋」製作委員会
第11話がもう一点素晴らしかったのは、コスプレは動物的な性欲を超越した(あるいは、いったん棚上げにした)身体を用いたコミュケーション様式でもあるのだと提案してみせたところにある。ラブホテルという空間でそういうことをするのではなく、五条くんと喜多川さんが「りずきゅんのいい写真を撮る」という1つの目的のために、喜多川さんの身体を使って「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤をする様子は、コスプレの創造的な一面をまざまざと見せられたような感慨がして非常によかった。その一方で、ふと我に返った瞬間に五条くんと喜多川さんが男女の関係・動物的な身体欲求の次元にあっという間に引き戻されてしまうのも、大変誠実な描写で素晴らしい。
というわけで、ジェンダーとセクシュアリティの話を本気で本作の批評にも落ち込むとかなり面白いことが色々言えそうな気がする(僕はもうサブカル批評にそんなに興味がないのでやりませんが……)。蛇足ながらもう一点つけ加えると、本作は2020年代のオタクカルチャーのモード感をかなり忠実に反映しているようにも思っており、本作で表象されるオタクカルチャーの聖地がもはや秋葉原ではなく池袋であるところに端的に表れている。
・『明日ちゃんのセーラー服』
(C)博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会
長らく日常系アニメを専門としている者としては、『平家物語』に並んで『明日ちゃんのセーラー服』を採り上げないわけにはいかない。純粋に完成度がずば抜けている大変素晴らしいアニメーションで、これまで何度も擦られてきた学校を舞台とした日常系作品に、また新たな視点を持ち込んできた快作のように思われる。それは、セーラー服への執着に代表される、何らかの対象に対する異様なまでのフェティッシュな意識で、女の子の身体部位にフォーカスを当てたやたらフェチぃ絵(何度見ても、第3話が腋のカットから始まるのは明らかにおかしい)もその中に当然含まれる(し、そこだけが取り沙汰されて批判されるのは致し方ない気もする)のだが、本作の本質はそこではない。「フェティッシュ」(物神崇拝)という語の本来的な意味で、とにかくどこを切ってもフェティッシュな意識で満ち満ちており、これは日常系作品の系譜の中で『明日ちゃん』が新しく提示してきた切り口のように思われる(僕も日常系を全部観てきたとは到底言えないので、こういう大きいことを言うのが危ないのは自覚している。間違いだったらご指摘ください)。
中でも、本作における最も重要なフェティシズムの対象は、「動き」そのものだ。それは、原作においても、時々漫画の文法を逸脱して、ただ明日ちゃんの動きがコマ送りされるようにイラストレーションが配置されている異常なページが続くところに端的に表れている。
(C)博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会
最終話の後夜祭のダンスと演奏にオーバーラップする体育祭の描写にむけて、第10話からスポーツが前景化するようになる。それまでも、運動して駆動する身体をいかに生き生きと描くか、Animateさせるかというところに意識が向けられていたのだが、最終話のクライマックスに向けてその意識がより先鋭化するようになる。いかに「動かすか」という作り手の欲望と技術が結集した最終話で踊る明日ちゃんのシークエンスは、何度見てもただただ圧倒される。
ただ、本作において僕が一番好きで評価している挿話は、第7話「聴かせてください」である。なぜなら、この挿話だけ「動」ではなく「静」が挿話全体を支配しており、ひたすら鮮烈だったからだ。
(C)博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会
第7話は、ギターの演奏に注力する蛇森さんとバスケ部の練習に打ち込む戸鹿野さんの関係性の挿話を中心としながら、放課後の部活動の様子が様々描かれる。発声練習をする明日ちゃん、バスケのシュート練習をする戸鹿野さん、一生懸命に走る龍守さん、など。
ただ客観的・中立的な目線で各々の何気ない・他愛無い様子を描いているだけのはずなのに、やたらじっとりとした時間が流れ、張り詰めた緊張感が挿話全体を支配している。戸鹿野さんのシュートがゴールに入る・入らないがあたかも世界の命運を分けるかのような、並大抵ではない「重み」が1つ1つの運動に乗っかっているのである。
それは、ひとえに第6話までひたすらに、明日ちゃんの生き生きとした「動き」(これは内面・外面両方を含む)を描写してきたことのギャップが生んでいるのだと思われる。1クール全部を総括してみても、本作中第7話だけが、「明日ちゃん」と「動き」が画面上の中心的な意識からやや後退しており、「蛇森さんと戸鹿野さんの関係性」あるいは「静の意識」が全面的に画面を支配しているのだ(ここまで来ると、戸鹿野さんの下の名前が舞衣で、蛇森さんの下の名前が生静であることにも、余計な深読みをしたくなる)。この第7話があったからこそ、「動き」に対するフェティシズムが、より効果的かつ鮮烈に浮かび上がってくる。