2021年1月に読んだ本たち+α | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

明けましておめでとうございます。読書記録も3年目に突入です。

今年は月に一冊は長編小説を買って読むことを目標にしています。

 

・マーガレット・アトウッド『誓願』(The Testaments.: 2019年。鴻巣友季子訳、早川書房、2020年。)

2021年一発目の最初の本はマーガレット・アトウッド『誓願』にしようとずっと前から決めていた。

2019年、アトウッドが2度目のブッカー賞を受賞することとなった本作 The Testaments は、1985年に出版された『侍女の物語』 The Handmaid's Tale の続篇として書かれた。

女性が抑圧されるキリスト教原理主義国家・ギレアデ共和国を舞台としたディストピア小説で、権力者であるリディア小母、特権階級である司令官の娘・アグネス、そして隣国カナダのティーン・デイジーの三者の視点と語りが交錯しながら物語が進んでいく。

 

いかにもディストピア小説~~という展開と描写がただ淡々と続いていく前半はひたすらきつい。特に学校を舞台としていたアグネスのパートは端的に苦痛。このセッティングで「学校」が出てくるとヒェッとなるのは完全にカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』のトラウマだ。だが他の2人のパートも決して読んでいて楽しいわけではない。ギレアデ共和国が誕生した時のリディアの述懐も、両親が爆殺されたデイジーのパートも読んでいて苦しい展開が続く。そういうわけで「気合いを入れて読むのだから……」と毎晩胃を痛めながら読んでいったわけだが、300ページを超えたあたりで3人の語り手の視点と場が重なり出してから急激に面白くなっていき、物語がドライブしだしてからはあっという間に読み終わってしまった。さすがアトウッド先生だし、さすがブッカー賞だ。

 

 

言うまでもなく本作はフェミニズム小説でもあり、女性が抑圧される現実社会の在り様を痛烈に批評している。「天地創造の瞬間から定められた女性の服従については?」(301)とドキッとするパンチラインを初めとして、無数に散りばめられているキリスト教のアリュージョンを読むにつれて、キリスト教を内面化していない自分は「やっぱり西欧社会に根づくキリスト教の伝統がよろしくないんじゃないの?」という気持ちを抱く。

 

だが、女性を抑圧する社会は男性を抑圧する社会でもあり、もっと言えば人間を抑圧する社会なのだというフェミニズムの理論の一つは、本作を読むことで腑に落ちた気がする。そう感じた部分はドクター・グローヴの挿話だ。

優秀な歯科医であるグローヴは幼い患者たちに性的いたずらを繰り返す小児性愛者だった。さらに、養子であるベッカにも性的暴力を加えている最低な男だったことが明らかになる。しかし、歯科医として優秀だったため権力者によって罪をもみ消されているし、ひどい目に遭う女の子が続いているにも関わらず野放しにされている。そんな彼はリディア小母の策略によって消されることになる。その最期も壮絶で、<集団処置>という名のもとに<侍女>たちにリンチされて処刑される。優秀な歯科医だったのにペドフィルであったとはお気の毒に。壮絶な苦しみだっただろう(394)。

 

この挿話はどう受け止められるべきか。そもそも、社会的な権力によって生殖行為は司令官と<侍女>に限定される特権的なものになってしまっているため、一般男性の性欲ってどうするんだろう問題が生じてくる。考えてみれば当然なのだが、ギレアデには何の代替手段もなかったのだろうな。

もちろん、グローヴの所業は最低だし決して擁護できるものではない。アグネスの視点からわいせつ行為をされている場面の描写もあったが、非常に不快だったし苦痛だった。だからといって、グローヴは無残に殺されて然るべきだったとはどうしても思えない。自らの性欲のために破滅してしまった彼の結末には「ああ気の毒だなあ」と思わずにはいられなかったし、彼もまた歪な社会であるギレアデによって殺された被害者の一人だとは言えないだろうか。

 

 

グローヴの所業が発覚するきっかけは、アグネスとベッカの内緒話をリディアが集音マイクで聴いていたことによる(徹底的な監視社会!)。ベッカはずっと抱えてきたトラウマを、親友であるアグネスにだけこっそりと打ち明ける。それを受けたリディアの語りが続く。

落涙があり、アグネスのさまざまな慰めがあり、永遠の友情の誓いがあり、祈りがあったことはとくに書かなかったが、あったのだ。それは世にも強かなハートをも溶かすに充分だった。このわたしのハートまでが溶けかけた。(354)

お前のハートも溶けるんかい!と突っ込まずにはいられない端的な記述。この辺りから、用意周到・冷静沈着・情け容赦がない冷酷な人物だと思われていたリディア小母に対して、実はこの人面白い人なんじゃないの?という印象を抱くようになる。その後のリディアパートでもジャド司令官(こっちは本当に擁護するところのない最低の男だと僕は思いました)にチクっとやり返したりしている。このあたりは大変よかったです。

 

物語終盤に向かっていく中で展開されるアグネス、ベッカ、そしてデイジーの3人の女性の結びつきは、まさにこれが女性同士の連帯(シスターフッド)か、ということに尽きるのだが、この場面においても、リディアもアグネスとベッカの連帯に強く心を動かされ、同時にブチギレて「元裁判官の本気を見せてやるからな」と言わんばかりにグローヴを裁くために暗躍を始める。この場面、オタクである僕はリディア小母が「とうとい~~」と言っているようにしか見えなくて吹き出してしまった(すみません)のだが、フェミニズムとしては女性の連帯の在り方を具体的に描出するすごく重要な場面だ。

 

 

物語の結末はちょっと出来すぎなくらいのハッピーエンドでご都合主義的じゃない?と思ったものの、トランプ政権も崩壊したことだし、まあいっかという感じ。

そうそう、小川公代さんの解説にもあった、『侍女の物語』の発表当時から比してアトウッドの読まれ方がかなり変わったという話は確かにそうだなと思った。まだディストピアという言葉がそれほど認知されていない時代では、『侍女の物語』はどこか空想的な社会を描いているファンタジーとして主に受容されただろうが、今を生きる我々にとってはギレアデを完全にフィクショナルな世界として眺めることはないだろう。というわけで、純粋に小説として面白かったし、いま読んでおくべき重要な作品でした。たいへん素晴らしかったです。
 

 

・木田元、須田朗編著『基礎講座 哲学』(初版、1991年。ちくま学芸文庫、2016年。)

この本はすごい。学部1年のときに読んでおきたかった。でも今読んでおいてもよかったと思う。

本書はもともと看護学生のための教科書として書かれているので、初学者に対しても非常に親切でわかりやすい。それでいて網羅的かつかなりよくまとまっている。さすがに読み継がれているテクストだけある。

 

 

本書で西洋哲学を概観して思ったことは──これは解像度の低い感想で恐縮だが──哲学においてはプラトンがめちゃくちゃ強い、ということ。

哲学の祖たるソクラテスの言葉はプラトンの書き伝えで我々は知っているし、例のイデア論で形而上学的世界を構想したことによって長らく哲学は形而上学の発想法を前提とすることになった。極めつけは『国家』において、プラトンの国家論には優生思想の萌芽がすでにあったというのは、なんだか目から鱗が落ちる思いだった。そうか、プラトンの時代からギレアデ共和国への道はすでにあったんだな。

 

 

とにかくこの一冊でかなり精度の高い西欧哲学の見取り図が手に入ってしまうのが強すぎる。

哲学史を概観する前半のチャプターが素晴らしいのも然ることながら、後半の各テーマ論も秀逸。個人的には第5章「心と身体」がすごくよかった。

 

本書の特徴としては、哲学史がいかに先駆者の考えの継承と反論によって展開されてきたのかがよくわかるというところにある。このチャプターでも、近代哲学の祖たるデカルトがいかにしてアリストテレス的なアニミズム世界観から脱却して、純粋に数学的な説明によって成立する近代物理学の世界観へと転換していったのかがよくわかるようになる。そら、物質の内部には霊魂が宿っていて、その力によって物体は落下するのです、みたいな世界観だと物理学もへったくれもないもんなあ。

 

このようにデカルトの物理学の話から初めて、心身二元論について考察を展開していくのが「心と身体」のチャプターの構成である。

最後に話される身体図式の話も面白い。我々は、眼によって認知する人間の身体の在り方(人体模型が典型)が正だと思いがちだが、そうではない身体の認知の仕方がある。我々が身体を駆動して何かをしているとき、自らの身体の内側から身体を認識している。そのときの「生きられる身体」は、「見える身体」と重なる部分はあっても、完全に一致することはない。なるほど。この発想法を展開していくと、「人間の身体は精神を入れる容器でしかありません」という、精神を身体の上位に置く伝統的な発想法に有効な反論ができるような気がしている。

 

 

・あfろ『ゆるキャン△』(11)

『ゆるキャン△』11巻表紙。(C)あfろ/芳文社

 

今期から始まった『ゆるキャン△ Season2』最高です。これのおかげで繁忙期をサバイブできそうです。

3年越しの2期となってとんでもなく期待値が上がっている中で、アニオリをぶつけてきた第1話「旅のおともにカレーめん」がさすがに素晴らしすぎました。リンちゃんもビギナーキャンパーだった時代があったんやな。それから、なでリンの「行ってくる」「行ってらっしゃい」のやりとりが完全に夫婦の空気感のそれだった。このタイミングで『へやキャン△』も再見したのですが、第10話・梨っ子スタンプラリーが楽しそうななでしこに対して、「そっか」と優しく声をかけるリンの感じが改めてすごくよかったです。あそこが『へやキャン△』のベストシーンだと思います。

 

 

さて最新11巻。なでしこ、リン、綾乃3人のキャンプ完結編。アニメ版も第3話にアヤちゃんが初登場しましたが、さすがともよ先生と唸らされる名演でした。初っ端の「はじめましてー」の脱力感がすごくよかったところから、最後までしっかりと存在感を残していったと思います。今回はこれで出番が終わりだとちょっと寂しい。

 

またアニメの話になってしまった。

今回の巻数では、70ページから74ページのシークエンスがすごく心に残りました。

写真を見返して想い出にふける→浜松を発つ直前のなでしこと綾乃のやりとり→「リンちゃんとアヤちゃんが一緒に遊んでるって何か不思議な感じ」→夕飯の構想を思いつく→ふと山を見上げたら電車が登っている……というなでしこの一連の行動や想念と、それにゆっくりと浸っている時間感覚を自分も共有できたような気がして、すごく豊かな時間だったなと。

 

それから、もはや『ゆるキャン△』は地図必須のコンテンツとなっているので、今回の3人の行程をGoogleマップでなんとなく追ってみたのですが、いやあ、この距離を原付で行っちゃう二人がヘンタイすぎる。それから大井川ってマジで静岡の奥地にあることがわかり、『ゆるキャン△』のおかげで山梨・長野・静岡の地理に少しずつ詳しくなれる気がしていいですね。そういえば今年は出張で浜松に行きたいですね……。昨年は浜松にあるお客様とのお仕事がオンラインで終わってしまったので。幼いころからの友人が浜松で働いているので、仕事の後にでも会ってお酒を飲みたいものです。

 

 

+α

・2020年秋クールは『魔王城でおやすみ』を完走しました。よかったです。

水瀬いのりさんのモノローグと早見沙織さんの「たいへんよくできました」のために観ていた感がありましたが、ギャグのテンポが心地よかったのみならず、最後の展開のもっていき方と温度感がすごく絶妙でした。睡眠をめぐるはちゃめちゃコメディ一本で行くのかなと思いきや、物語終盤、スヤリス姫が「魔族はこんなに優しいのに、どうして人間と敵対しているのだろう」と気づきを得て、最後に魔族と人間の仲立ちをすることを決意するEDの展開が、嫌味なく多様性の挿話をやってくれて結構気に入りました。

あと、確か第11話くらいだったと思うんですが、「本番はやっていないから!」という台詞が少年サンデー掲載とは思えないくらいエッジが効いた下ネタでびっくりしました。
 

・繁忙期を生きています。4月まで無事に生き残れるといいなあと思いながら日々仕事をしています。

当たり前なんですが、仕事がまだわからないことだらけなんですよね。こんな状況で大丈夫かとなっているのですが、もうちょい自走できる状況にもって行けることが当面の目標ですね。

 

心身の安寧のために日々『ゆるキャン△』を欠かさずに観ています。休日になったら都会を離れて田舎にリフレッシュしに行こう!というのはイギリスの都市労働者が生み出した習慣なのですが、コロナ禍にあってはそれすら叶わず、『ゆるキャン△』を観ることによって部屋にいながら田舎に行った気になって癒されよう、というのはなかなかディストピアみが強い光景だなと思っています(それでも『ゆるキャン△』は素晴らしい)。