日常/非日常を紡ぐ――『私に天使が舞い降りた!』 | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

『私に天使が舞い降りた!』(2019. 1-3月:『わたてん』)は、日常系アニメを観る快楽と喜びを、久しぶりに、改めて味わわせてくれたいい作品だった。

 

『私に天使が舞い降りた!』第12話。(C)椋木ななつ・一迅社/わたてん製作委員会

 

制作はさすがの動画工房といったところで、女の子いっぱい萌え日常系アニメの作り方を物凄く心得ている。とにかく、女の子の可愛い芝居付けに余念がない。ひたすら可愛い。それにテンポがいい。さらにOPEDが神がかっている。よい。C'est bon. 

 

 

さて、『わたてん』の楽しみ方としては、別に難しいことを考える必要は全くなく、頭を空っぽにして30分間キャラクターの可愛さと作品のテンポの良さにひたすら酔いしれていればよい。今さら自分が言うまでもないが、せわしなく、ルーティン的であり、mundane でもある自己の日常からしばしの間トリップし、虚構世界で繰り広げられる幸せな日常に自己の日常世界を接続すること(あるいは自己の日常世界を拡張する、と言ってもよい)が、日常系アニメを観る意義なのだと思う。

 

 

しかし、本作は、色々と感想を書きたくなるほどに非常によく出来た日常系アニメだと思うために、また、色々ときつかった今月は本作のおかげでなんとか人間の形を保てているという実感もあるために、2つほど本作のポイントを指摘した小文をしたためようと思った次第である。

 

 

「終わりなき日常」という矛盾

 

日常系アニメは文字通り日常を描いたものである。普通に考えて日常に終焉が来ることはない。

 

しかしながら、テレビアニメである以上いつかは最終回がやってくる。特に1クールで終わってしまう深夜アニメの場合、初めから12回(ないしは13回)という限られた回数しか挿話を描くことができない。

 

冒険物語であれば、旅立ちから帰還までを描くことによって物語を閉じることができる(『宇宙よりも遠い場所』を想起すればよい)。しかしながら、日常系の場合、有限の枠組みの中で、終わりなき日常という無限を描かねばならない。日常系アニメは、根本から矛盾している作品形態なのだ。

 

 

『わたてん』では、オタクで人見知りの女子大生・星野みやことその妹・ひなたを中心に、小学校5年生の女児たちとわちゃわちゃ交流する日常が描かれる。

 

本作で主に描かれるみやことひなた・花・乃愛が遊ぶ日常は、(もちろん個々の日は区別可能で単独的なものであるが)終わりなく繰り返されている<日常>である。そこには大きな変化もなければ著しい成長もない。当然ながら有限的な時間性もない。

 

 

ところが、『わたてん』の後半の挿話になってくると、時間が進んでいく予感が示唆される。

例えば、第9話のBパート・みやこの思い出を写真で振り返る段にて、みんなで中学校の制服を着てみる場面である。

 

乃愛「中学生になったら、今みたいにいっぱい遊べなくなっちゃうね。いつか仲良しじゃなくなっちゃうのかな?」

ひなた「そうなのか?」

 

『私に天使が舞い降りた!』第9話より

『私に天使が舞い降りた!』第9話。(C)椋木ななつ・一迅社/わたてん製作委員会

 

ここでは、今繰り広げている<日常>が決して永遠ではないこと、普段の交流は今だけのものであって、中学生になったらもうできなくなってしまうだろうし、その結果今の関係性は消滅してしまうのではないか、という、恐らく皆が薄々感じていたと思われる素朴な疑問が乃愛によって提示される。

 

 

それに対し、みやこはこう答える。

 

みやこ「大丈夫だよ。ちょっとくらい遊ぶ時間が減っても、仲良しは仲良しのままだから」

ひなた「みゃー姉……」乃愛「ミャーさん……」花「お姉さん……」

 

『私に天使が舞い降りた!』第9話より

『私に天使が舞い降りた!』第9話。(C)椋木ななつ・一迅社/わたてん製作委員会

 

今の<日常>は永遠でなくても「仲良し」の関係性は永遠である、とこういう論理をみゃー姉が示してくれる。ここのみゃー姉はすごく大人だ。

この返答に対し、3人がそれぞれの呼び名でみやこへの同意を示すこの場面が、たまらなく良いと思ってしまうのだ。

 

 

私たちは有限の生を生きねばならない中でも無限を希求してしまう。

この日常がずっと続けばいいのに。この関係がずっと続けばいいのに。このまま時間が止まってしまえばいいのに。

同時に、こうした願いが決して叶わないことも知っている。絶対に最終回が来ない物語構造を有する『わたてん』だって、いつかは最終回が来てしまうのだ。それはよくわかっていても、それでも「終わらないでほしい」と願ってしまう。願わずにはいられない。

 

 

私たちはこのように、有限と無限の終わりなきせめぎ合いの中を生きている。

 

 

このことは実は、物語世界を生きるみやこと花もそうなのである。

 

 

ここで第10話のBパート・みやこと花のやりとりを採り上げる。

 

花「でも……いつかお姉さんのお菓子食べられなくなるときが来るんですよね…」

  「お姉さんが家を出て遠くに行っちゃったりしたら……」

みやこ「花ちゃん。大丈夫だよ。前にも言ったけどきっと20年先も花ちゃんと私は一緒だし。それに…私はずっとあの家にいるから!いつでも来てね!」
花「それはそれでどうなんですか」

 

みやこ「じゃなくて!私が将来家を出ても出なくても一緒っていうか…え~と…だから…つまり…」
    「私は一生花ちゃんのためにお菓子作ってあげるから!」

 

花「はい。よろしくお願いします」

 

『わたしに天使が舞い降りた!』第10話より

 

『私に天使が舞い降りた!』第10話。(C)椋木ななつ・一迅社/わたてん製作委員会

 

このやりとりは、物語全編を通して最も幸福度が高い場面だろう。それは、みやこと花の百合的な関係性も然ることながら、二人の<いま、ここ>の関係性が未来へと約束されていったために、有限であるはずの生が無限へと変わる可能性、限りある日常がその有限性を超越する可能性を見せてくれる場面だからなのである。

 

 

もちろん、流れる年月が花とみやこの関係性をいつか不可逆的に変えてしまうかもしれない。

みやこがいつか自立して、家を出て、もしかしたら結婚して、という可能性も有り得る。その逆(花がみやこから離れる)もあるかもしれない。

このときの約束とは裏腹に、何らかの事情でみやこは花にもうお菓子を作ってあげられなくなるかもしれない。

 

 

そのような可能性は当然大いにあるのだが、そうでない未来も同程度、あるかもしれない。

いや、恐らく花が大人になってもみやこのお菓子を食べているだろう。確証はもちろんないのだが、多くの『わたてん』ファンは私のこの感慨に同意してくれると思う。

 

 

有限の生の中での、終わりなき日常という矛盾。

だが、有限だからこそ個々の日々がかけがえのないものとなり、当たり前に繰り返される日常が交換不可能な単独性を帯びるのである。

 

 

無限の中から有限を完全に締め出すのではなく、無限の中でも有限性をきらりとにじませてくれるからこそ、日常系アニメの快楽が生まれる。『わたてん』の多幸感と強度の高さは、こういうところによく表れている。とてもいい日常系アニメだ。

 

 

日常が非日常を支える

 

さて、『わたてん』アニメを語るのであれば、最終12話のAパート・劇中劇「天使のまなざし」に触れねばならないだろう。

 

 

この挿話の完成度の高さは言うまでもない。

『わたてん』にかける作り手たちの熱意と愛情が、フィルムからひしひしと伝わってくるようである(※1)。

 

だがここで注目したいのは、「天使のまなざし」という劇中劇の中に、これまで描かれてきた11話分のエピソードがところどころ顔を覗かせているという点である。

 

例えば、第11話の乃愛の「3つも役をやるの!」という台詞。これはそのまま乃愛が劇内でカルミア・カルム・マリーの三役をこなすことの前情報となっている。

 

しかしそれだけではない。第7話での花がみやこに髪留めをプレゼントする挿話、みゃー姉なりきりセットを使ってみやこの代わりをする乃愛の挿話、第8話での星野家にりんごを届ける花の挿話、第10話の「花ちゃんのために一生お菓子を作ってあげる!」という台詞、そして第11話での花が間違ってみやこにおもちゃの弓矢を撃ってしまう挿話、これらの何気ない日常の中でのエピソードが全て、「天使のまなざし」という非日常に結びついている。

 

 

「天使のまなざし」という作品内作品は、作品本編の解釈にも大きな影響を及ぼしている。

 

 

デイジー(ひなた)の孫であるマリー(乃愛)が、アネモネ(花)と愛を育むという「天使のまなざし」のあらすじは、第10話で約束された花とみやこの一生の関係性のイメージとして解釈できる。それは、みやこと同じ髪色・髪型のかつらを被って演じる乃愛の姿がみやこそっくりな(というよりも、第7話でのみやこの代わりをやっていたときとほぼ同じである)点からわかる。

 

 

アネモネはマリーと共にデイジーのカップケーキを受け継ぎ、守っていく。人間に愛を受け入れられなかったら消えていたはずのアネモネが消滅しなかったのは、アネモネの愛を拒んだかに見えたデイジーは、実は愛を受け入れてカップケーキを作り、そのケーキはマリーへと引き継がれていたからだ。

 

 

ケーキを愛の象徴として託すという「天使のまなざし」の愛の描き方はありふれたものと言えるだろうが、これが『私に天使が舞い降りた!』という日常アニメの劇中劇として描かれていることに意味がある。お菓子作りを通じて愛を紡いでいく劇中劇のイメージは、そのままみやこと花たちの日常に還元し当てはめることができるからだ。

 

『私に天使が舞い降りた!』第12話。(C)椋木ななつ・一迅社/わたてん製作委員会

 

このようにして、『私に天使が舞い降りた!』では、日常が丁寧に紡がれていき、それが時々非日常へとつながっていく。しかし、そうした非日常もまた、連続的な一方で永遠に続くわけではない日常の一部であることが示される。

 

 

ありきたりで平凡な毎日のように思えていても、実はそれがかけがえのないきらめきを讃えた日々であることを優しく教えてくれるから、本作はいいアニメだなあと思う。「『わたてん』は実家だ」という感慨は、私だけのものではないだろう。

 

 

 

※1:もちろん、本挿話で描かれるあきらかに高クオリティすぎる「天使のまなざし」がそのまま上映されたわけではない。フライングや松本姉妹の登場も含めた「天使のまなざし」はみやこの瞳に映るイメージであり、現実で繰り広げられた演劇とは異なったものであろう。このことは、第11話の最後にて、サングラスを外すみやこのカットがみやこの瞳を通して描かれることや、演劇パートに本格的に移る前に劇に魅入るみやこの瞳がアップになっている絵が挿入されることからも類推できる。

 

しかしながら、ここで描かれる「天使のまなざし」はみやこが独占するビジョンではない。ある種視聴者のメタファーでもあるみやこの瞳を通して映される非常に豪華な「天使のまなざし」は、キャラクターたちに惜しみなく親愛感を寄せる私たち『わたてん』視聴者の瞳に映るビジョンでもあるのだ。