「単一表現」の美しさ――太宰治「富嶽百景」の書き直しとして観る『ゆるキャン△』 | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

 

(実験的に文体を普段とは変えてみています)

 

 

大変今さらながら、『ゆるキャン△』(2018. 1-3月)の話がしたい。

 

 

なぜ『ゆるキャン△』が大人気を博したかというと、「食事の描写がマジでうまそう」とか、「キャラクターの距離感の描き方が心地よい」とか、「提示されるキャンプの情報はゆるくなくてガチ」など様々な要因を挙げることができようが、「緻密で丁寧な風景描写の勝利」という一言に集約できるのではないだろうか。そのことは『ゆるキャン△』を観て聖地巡礼に行く人々が後を絶たないことが証明しているように思われる。

 

 

その中でも特に、「富士が、よかった」。『ゆるキャン△』世界の中心には常に富士山があり、つかずはなれずな距離感で付き合うメインキャラ5人の中心には(普通ならばキャンプを置くのだろうが)常に富士山が存在していた。

 

『ゆるキャン△』OP映像より。(C)あfろ・芳文社/野外活動サークル

 

ところで、日本近代文学の文脈で「富士山」といえば太宰治の「富嶽百景」が浮かぶ(※1)。

私は高1の現代文の授業で出会ったが、国語の教科書に載っていたものはカット版で全体の3分の2くらいしか載っていないことが後でわかった。高3のときだったかに新潮文庫で読んで、「おいおい、いい場面がことごとく教科書でカットされているじゃないか」と思った記憶がある。

 

 

カットされてしまった場面の中に「月夜富士」の件があり、そこが大変素晴らしい。

 

「(……)その夜の富士がよかった。(……)おそろしく、明るい月夜だった。富士が、よかった。月光を受けて、青く透きとおるようで、私は、狐に化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ。燐(リン)が燃えているような感じだった。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛の葉。私は、足のないような気持で、夜道を、まっすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そっと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮かんでいる。私は溜息をつく」(57:以下数字は頁数を示す)

 

『ゆるキャン△』の第1話は、各務原なでしこと志摩リンの出会いが描かれる。

なでしこは「千円札の富士山」を見るために自転車を走らせて本栖湖までやって来たものの、疲れて寝てしまい、気がついたら夜になり途方に暮れてしまった。そこで出会ったのがソロキャンガール・リンで、食べさせてもらったのがカレー麵で、一緒に見たものが「月夜富士」である。

 

『ゆるキャン△』第1話より。(C)あfろ・芳文社/野外活動サークル

 

この「月夜富士」の綺麗さによってなでしこはアウトドアに目覚め、私は『ゆるキャン△』に心を掴まれたわけだが、ここを何度かぼんやり見ていたら「富嶽百景」の「月夜富士」を思い出した。

 

 

ところが、「富嶽百景」の「月夜富士」の件で続くのは、「富士の良さに気を良くして維新の志士や鞍馬天狗のように気取って歩いていたところ財布を落とした」という主人公の語りであり、本作における富士山を眺める語り手のスタンスは常にこんな感じであることに気づかされる。

とどのつまり、「富嶽百景」は富士山の話をしているようで自分の話ばかりしているのである。

 

 

「富嶽百景」は――有り体に言ってしまえば――「自己意識」の話である。

 

 

富士山の見え方が主人公(作者である太宰とほぼ同一視してよい)の心理状態によって千変万化するというのが「富嶽百景」の富士描写の特徴である。基本的には茶屋から眺める富士は「おあつらいむきの富士」で、「これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書き割りだ」と「好かないばかりか、軽蔑さえする」(50)のであるが、語り手を慕う新田という青年と出会ったときに見たときは「いいねえ。富士は、やっぱり、いいところあるねえ。よくやってるなあ」(54-55)と激賞したかと思えば、富士の傍らに咲く小さな月見草を褒めたたえて「富士には、月見草がよく似合う」(61)と言ってみたりする。仕事がしんどく精神状態が悪くなってきたときには「富士にたのもう。(……)おい、こいつら[遊女の一団体(引用者)]を、よろしく頼むぜ」(63)とか急に言い出すし、帰る際には「富士山、さようなら、お世話になりました」(71)と告げる。自己意識から脱却して、富士を完全に客観的に描写しているのは一番最後の「酸漿(ほおづき)に似ていた」(71)という一文だけなのではないかと思う(※2)。

 

 

一方、『ゆるキャン△』の風景描写、特に富士山の描写には、言葉を使わず、自己意識も投影されない。

ついでに言っておくと、なでしこは「千円札の富士山」、すなわち「富嶽百景」の語り手が軽蔑するところの「俗な富士山」(52-54)を見るためにはるばる自転車で本栖湖までやって来たのであり、この欲求がなければリンと出逢うことすらなく、野クルに入ることもなかった。

 

 

『ゆるキャン△』は「言葉を使って説明するパート」と「言葉を使わず絵で表現するパート」のメリハリとバランスが恐ろしいほど緻密に計算されており、説明パートではLINE風の演出を使ってばーっと台詞を流したり、大塚明夫のナレーションで教育番組のような趣を醸しだしたりする。

 

 

反面、綺麗な風景描写に対してキャラクターたちは「綺麗だね」しか言わない(第2話の野クルでのなでしこの述懐、第5話の夜景の交換)。綺麗な風景を言葉の力ではなく絵の力(と劇伴の効果)のみで視聴者に提示するところに『ゆるキャン△』の凄まじさがあるのだが、実はこれこそが太宰が「富嶽百景」でやりたかった(ができなかった)ことなのではないだろうか。これに深く関わってくるのが「富嶽百景」で語り手が逡巡する「『単一表現』の美しさ」である。少し長いが全て引用する。

 

「素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動で摑まえて、そのまま紙にうつしとること、それより他には無いと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもって目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考えている『単一表現』の美しさなのかも知れない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だっていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、この富士の姿も、やはりどこか間違っている、これは違う、と再び思いまどうのである」(62)

 

「『単一表現』の美しさ」という言葉は、『ゆるキャン△』の風景描写の緻密さ、綺麗さを説明するのにやたらぴったりはまるような気がする。

これこそが、私が『ゆるキャン△』はアニメの文法と表現を駆使して描かれた2018年版「富嶽百景」、あるいは「富嶽百景」の書き直しと解釈する所以である。

 

 

ところで、「富嶽百景」のクライマックスでは、主人公が観光客二人組に記念撮影を依頼されたものの、「まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟の花ふたつ」という風景が「おかしくてならな」く、結局「狙いがつけにくかった」として「ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして」写真を撮る場面が描かれる(71)。語り手が人物を排除して富士山だけの写真を映すところで「富嶽百景」が終わっていく一方、『ゆるキャン△』はなでしこの撮るクリキャンのビデオ映像から始まり、各キャラクターの個別の笑顔のスポットの後に、5人全員の集合写真のカットで最初のオープニングテーマを迎える。これら二作品の終わり方と始まり方が対比的にやたら綺麗に決まっているように思われるのは、果たして偶然であろうか。あるいは、私の穿ち過ぎな見方であろうか。

 

『ゆるキャン△』第1話より。(C)あfろ・芳文社/野外活動サークル

 

 

※1:太宰治「富嶽百景」は、新潮文庫版『走れメロス』(新潮社、1967年)から引用した。

※2:太宰治という作家自体が<一人称の語り>の作家なので、そこを改めて指摘しても本業の人からは「今さら?」と言われる気がする。