武蔵出身で京大に5回挑戦したという早稲田政経の学生の話を読んだ。

 

 

 

 

彼は、京大出身の父親の勧めで「武蔵の校風が京大と似ている」として、中学受験を経て武蔵に進学した。

 

中高時代はあまり勉強せず、成績も下位層だったという。

 

武蔵らしいといえばそれまでだが、「高3から受験勉強を始める」という流れの中にいた。

 

結果は現役で全落ち。

 

そこから浪人してようやく学習習慣が整い、成績も大きく伸びたが、第一志望の京大には届かなかった。

 

ここまでは「中高一貫あるある」にも見える。

 

印象的だったのは、その後の展開。

 

早稲田大に進学してからも京大への思いを断ち切れず、編入試験に再挑戦。

 

それでも届かず、最終的にようやく踏ん切りがついたという。

 

合計5回の挑戦。

 

ここまでくると、単なる受験の話というよりも、納得に至るまでのプロセスのように見えてくる。

 

受験においては、どうしても「どこに合格するか」に意識が向きがちだが、その先で何を引きずり、何に折り合いをつけていくのかは、また別の話だと感じる。

 

 

努力も才能の一つ」と気づいたと語っていたのも印象に残る。

 

自由な環境の中でのびのび過ごした時間も、決して無駄ではないし、卒業後に身につけた学習習慣を通じて自分を理解したことも、同じくらい価値のある経験だろう。

 

さらに興味深いのは、留学を経て「いかに狭い世界にいたか」と感じたという点だ。

 

あれほどこだわっていた京大という存在も、視野が広がることで相対化されていく。

 

中高一貫校での6年間は確かに濃い時間だが、それでも長い人生全体から見ればごく一部に過ぎない。

 

受験でどこに届くかも大事だが、その過程で何を経験し、どこまで納得できるか。そしてどれだけ視野を広げていけるか。

 

そんなことを、あらためて考えさせられる話だった。