国立大理系学部出身の夫と私立文系出身の妻との間で、会話や子どもの教育方針がかみ合わないというネット記事があった。
夫は、「文系は非論理的」「数学ができないと将来は厳しい」と繰り返し、子どもの進路も理系一択に近い形で語る。
一方、妻は、子どもの興味や読書力、表現力といった部分を重視している。
しかし議論は終始かみ合わない。
よくある「理系 vs 文系」の対立に見えるが、実際のポイントはそこではない気がする。
たぶんズレているのは、そもそも何を正解とするか、が違うという点だ。
夫は将来の仕事や収入、いわゆる「食べていけるか」を基準にしている。
できるだけ失敗しないルートを選びたい、という発想。
一方で妻は、子どもが楽しく続けられるか、好きなことを伸ばせるかを見ている。
同じものを見ているようで、見ている方向が違う。
ここでよく出てくるのが「理系は論理的で、文系は感覚的」という整理だが、そもそもこれはかなり雑な話だと思う。
たしかに数学や理科をしっかりやってきた人は、筋道を立てて考える訓練をしているので、論理的な組み立てが得意なことが多い。
ただ、文系の分野でも、話の構造がとても明快な人はいるし、感覚だけで進んでいるわけではない。
むしろ違いは、「論理の使われ方の違い」に近いのではないか。
例えば国語は、感覚やセンスの教科のように見えるが、実際にはかなり構造的だ。
文章の流れを追い、因果関係を整理し、筆者の考えを正確に読み取る必要がある。
本質的には、ロジカルな読み取り作業と言っていい。
そう考えると、国語ができる子が算数にも強いことがあるのは、ある意味自然なことにも思えてくる。
文章題もまた、条件を整理して筋道を立てるという意味では同じ作業だからだ。
英語も同じで、感覚というよりは構造の言語だと思う。
語順や文法に従って意味が決まるため、むしろ数学の証明のように、順序立てて考える力と相性がいい。
こうして見ていくと、教科ごとに別々の能力があるというより、「同じ考える力をどこで使っているか」という違いなのかもしれない。
もとの夫婦の話に戻ると、夫は「数学に強い=論理的で正しい」と感じやすく、妻は「言葉や気持ちの理解も含めて人間の力」と考えているように見える。
どちらかが正しいというより、それぞれが違う側面を見ているだけとも言える。
学校などでも、成績が安定して伸びる子ほど、教科をまたいで同じ考え方をしていることが多い。
とはいえ、それが自然に育つかどうかは、その子の興味や日々の関わり方にもかなり左右される。
論理的な思考は、日々の生活の中で少しずつ育っていくようなものなのかもしれない。