中受界隈では、ときどき「遊びたい盛りの子どもを勉強に縛り付けるのは虐待ではないか」という話になる。

 

確かに、一歩間違えばそうなる危うさはある。

 

親が不安や見栄で暴走し、子どもを追い込みすぎる例も現実にはあるし、実際にそういう話を見聞きしたこともある。

 

元中学受験生が、大人になってから当時を振り返った文章を読み、とても考えさせられた。

 

印象的だったのは、彼女が単に「親は正しかった」とも、「親に傷つけられた」とも整理していなかったこと。

 

実際、小学生だった当時は、受験をやめたいと思ったこともあったという。

 

好きなことをやりたい、もう疲れた、という気持ちも当然あったのだろう。

 

しかし、大人になった今は、親に最大限感謝しているとも書いていた。

 

「当時つらかった」という記憶と、「あの経験が今の人生につながっている」という認識、その両方が同時に存在している。

 

しかも彼女は、当時の親の気持ちを十分理解しつつ、それでもなお「親が正しかった」とは言わない。

 

実際に今、子どもの権利について学び、子どもの声を社会に届ける活動にも関わっている。

 

受験期の親の関わり方には、かなり強引な部分もあったのだと思う。

 

それでも、「もし当時の自分の気持ちを全面的に優先していたら、今とはまったく違う人生になっていたかもしれない」と考えていた。

 

ここが重い。

 

子どもの頃の判断は、どうしても目の前の感情に引っ張られる。

 

疲れた。遊びたい。逃げたい。それ自体は自然な感情だ。

 

親は、もっと長い時間軸で物事を見る。

 

サラリーマンをやっていると、社会の厳しさも、学歴や環境が人生に与える影響も嫌でも見えてくる。

 

「今は嫌でも、後から振り返れば意味があった」という経験も、大人には積み上がっている。

 

だから親は、どれだけ子どもから嫌がられても、簡単には引けない。

 

ただ、その親の「正しさ」は、とても危うい。

 

本当に子どものためなのか、それとも、親自身の不安やエゴなのか、その境界線はかなり曖昧。

 

愛情と支配は、ときどき非常に近い場所にある。

 

中学受験は、単なる学力競争ではない。

 

親の愛情、期待、不安、焦り――そういうものが全部むき出しになる、親子関係のイベントでもある。