子どもが中学受験を始めるにあたり、親が情報収集する中で、有名私立中の過去問を見て衝撃を受けたときのことをブログに書いたことがあります。
中学入試って、こんなことやるんだ、と思うと同時に、これに挑戦する子どもの大変さがよくわかりました。
「大変なことをやらされてかわいそう」ということではなく、「尊敬に値する」という意味です。
中学受験に挑戦してすごい!
もはやコウペンちゃんの世界。
これが親の伴走の原点だったかなと思います。
「なんでできないの?」なんて軽々に言えません。
大変さがわかるからです。
「じゃあ、この入試問題やってみてよ」と言われたら、返す言葉がありません。
算数や数学が得意な親もいるかもしれませんが、その場合でも、それを「子どもにもわかるように説明できるか」は別の問題。
塾や教育関係者以外で、理科、社会の幅広い知識を体系化して身に付けている大人ってどれくらいいるんでしょうか。
別に親が試験を受けるわけじゃないんで、できる必要はないんですが…。
中学受験は学校での勉強とあまりに違い過ぎて(難しすぎて)、できないことが多くなりがち。
子どもは日々成長しているのですが、それに気づく暇がありませんでした。
劣等感にさいなまれ、自信をなくしがち。
テストの点数で序列化されるのがそれに拍車をかけます。
偏差値60でも「偏差値70の人がいる」と落ち込んだり、上位クラスから落ちただけで「もうおしまいだ」となったり…。
これって、何かおかしい。
中学受験から離れるとそのおかしさがよくわかりますが…。
何でもかんでもとにかく褒めればいいのか、というとそれも違う気がします。
結果ではなくプロセスを褒めるといった「褒め方」も考えないといけないだろうし、褒めるべきは褒め、叱るところはきちんと叱るのも大切。
親が先回りして失敗を回避させるのではなく、子どもにどんどん「やらかし」てもらってそれを改善し次につなげる発想が必要だなと思いました。
Fail fast.
親はそう思っていたのですが、子どもにはそれが理解できませんでした。
「できなくて悔しい」「できない自分が許せない」という思いで凝り固まっていました。
これでは自己肯定感ダダ下がり。
以前ブログに書きましたが、子どもは「今を生きている」存在なので、目の前にある問題ができればOK、できなければ「ダメな自分」という単純な二分論になっていました。
「間違えたことを教訓にして次に繋げればいいんだよ」
何度言っても全く響きませんでした。
きっと、子どもが「異次元」の世界を生きていたからだと思います。
じゃあ、どうしたらいいの?
ひとつは、マルかバツか、0か100ではなく、0から100までの間にグラデーションがあり、100を目指さない。
それを子どもに理解させること。
例えば、部分点を稼ぐ、難問奇問は捨てる、取捨選択する…。
子どもなりにできたことを認めること。
例えば、子どもが苦手としていた国語の記述は、「ゼロ点にならないこと」を最初の目標にしました。
算数や理科の難問も、「得意なキミができないような問題は他の子もできないから全く気にしなくていい、そこで差はつかない」と言って、深追いさせませんでした。
「全部できなくていいんだ」
「それだったらできそう」
そう思えることで随分違ったように思います。