「中学受験準備大全」に掲載されている「新迷解 中受沼用語辞典」にある「中学受験」の説明を読んだ。
(引用)
「受けなくてもいいが、受けると決めた子が精一杯頑張る試験。合格よりもずっと意義のある“自分との対話”を経験する。受験が終わる頃には親も子も少しだけ大人になっている。」
軽い言葉の中にかなり本質を突いているところがある。
「自分との対話」とあるが、渦中にいるときはそんな余裕はなかった。
まず浮かぶのは、ひたすら大変だったという実感。
心の余裕はなく、周囲の熱量に引っ張られ、目の前のテスト結果に一喜一憂し、気づけば翻弄されていた。
特に算数は独特だった。方程式を使えば解けそうな問題を、あえて回りくどい方法で解いていく。
非合理にもみえ、最初は戸惑いもあった。
ただ、自分にとって方程式は得意な道具ではなく、むしろ忘れてしまっている側の人間。
だからこそ、その“遠回り”の中で組み立てられていく思考の筋道には、新鮮な驚きもあった。
単なる解法というより、小さな思考の世界のようにも見え、その奥深さをかいま見たような感覚だった。
今、少し距離を置いて見てみると、あの時間が単なる「学力競争」ではなかったことも見えてくる。
小学生にとって、日々の中で自分自身に問いを投げる機会はそう多くない。
今日はやるのか、やらないのか。
苦手から逃げるのか、向き合うのか。
悔しさとどう折り合いをつけるのか。
そうした内面的な選択をほぼ毎日のように突きつけてくるものだった。
親である自分もまた、同じように揺さぶられていた。
どこまで手を出すべきか。
結果をどう受け止めるのか。
そもそも子どもを自分の理想の投影にしていないか。
迷いや葛藤の連続だった。
当時はただ必死だった。
しかし振り返れば、その中でしか得られなかった「対話」が確かにあったのだと思う。
結果以上に、自分たちはどう向き合い、どう揺れ、どう立て直そうとしたのか。
その過程こそが中学受験のもう一つの本質なのかもしれない。
