真剣に悩む人は

本当に求めている人

 

そういう人の気持ちの方向性を保つ

ご参考になれば・・という話です。

無理に受け入れていただく必要は無いです。

理解・解釈・見解は千差万別。

 

タイトルの件

わたしは指標の一つとして、

客観的に見て、その宗教の教祖・開祖が

「人を助けたかどうか」を中心に調べて

自分がその宗教とどう向き合うかを

考えていました。

 

教祖開祖が

どうして

その成果を生み出すことができたのか、と。

その成果を生み出した教祖開祖の心を知ること、

そして真似ることが一番重要で、

他のことはどうでもいいと。

 

教祖開祖の身近にいた側近たちの心や

血縁者の心も

当てにはならない。

世界の大手宗教団体の成り立ち等を見れば

ウヤムヤにされてきたいろんな部分が

どうしてそうなったのか・・

ちょっと世の中に揉まれた大人なら

「金と権力闘争ね」と

容易に想像できる。

真剣に求める者が真似るべきは

「金と権力」では無い。

不思議を起こして見せた、

そこまで己を律して磨いた

教祖開祖の心

それが求める対象。

 

可能であれば文献をよくあたって

自分で読む。

その文献も大概は玉石が入り混じっている。

それを自分の目でフルイにかける。

フルイにかけながら

読んだ内容を頭で整理しながら

とにかく又聞きでなく、

自分で情報を取る。

 

有志の勉強会に

参加することもあるでしょう。

しかし、そこにも

金と権力と年功序列の関係がある。

そういう会合は適当にすべき。

 

経験上

その場所だけが「世界を救う場所」では無いと思うよ。

そこを離れたら地獄に落ちるとか、運命が悪くなるとか

そういうことは無いよ。

それだったらわたしはとっくに

地獄に落ちているはず。

 

現状は全然違うよ。

離れたおかげで、とても良いことがあったよ。

 

ただ、

そこに通っているうちはちゃんと勉強した。

けれど

「ここはもう卒業だ」と分かる時が

自然と訪れた。

そういう流れが自然に来たら、

それに乗ってそっとそこを離れる

そういう思い切りの良さも必要よ。

 

わたしはわたしとして

この世で幸せに生活する権利がある。

そうでしょ?

その思いは常に心に持って

「でも、人を助けたという教祖開祖の心を知りたい」と

そういう素直な心で向かう。

いずれだんだんと神秘体験を経験して

自然に少しずつ本当の智慧の階段を登ってゆく。

その途中途中で

不思議な出来事を体験する。

その体験が支えとなって

くじけそうになる時も耐えられる、

じっと我慢したあとに

また前に進める

勉強も続けられる。

 

「食べ物を残して捨てたらもったいない」とか

「人様に◯◯をしてあげなさい」とか

そんなことばっかり言ってる宗教団体ならば

「はいはい」とその場を切り抜けて

少しずつ距離を取った方が良い。

 

そんな言葉が心の助けになりましたか?

そう言っているその人は、幸せそうですか?

その人自身が、他人を満足させるような行動を

していますか?

そんなことないでしょ、たいていは。

そんな安っぽいことしか言えない人間は

人生観が変わるほどの神秘体験を

経験していないと思う。

 

人を助けた教祖開祖は

神秘体験を経て

その境地へ行ったと

わたしは理解している。