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あともうすこしのはずだ。
時折ごおごおと鳴る、肺の音に痰が詰まってしまっているのかもしれない。と、眠る沖田の横顔をみつめながら女は表情をなくしていた。
時勢をよめば、新選組が京からはなれる日はそう遠くはないはずだ。
それまでに島原にいる自分になにができるのか。
「…吉野、時間だ」
土方の声に女はすっかりこけてしまっている沖田の頬にくちづけをしてからそっと布団から出た。
「だから…とっととやっちまえって言っただろうが」
胸元がすこしはだけているのをその目にみとめ背をむけた土方は言って、女は着崩れてしまった着物を手早く整えながらちいさく笑った。
「そう簡単にはいかないものですよ。男女の仲も…時勢も」
最後の言葉にすこしの意味をふくめて女が言うと、土方はあきれた顔をする。
「ガキが…生意気言うんじゃねぇ」
そんな土方に女は懐から取りだした紙切れをさしだした。
「長州で三谷と言う方が…労咳で亡くなられたそうです」
その紙切れには女が座敷で見聞きした名や出来事がびっしりと書き連ねられている。
それは本来、島原だけに限らず花街の規範に反することだ。
ましてや他の遊廓とは別格である伝統を誇る島原の、しかも正五位の位をもつ太夫がそれをするなどあってはならないことだ。
けれど、土方に話を持ちかけられたとき、女は沖田を条件にしただけですんなりと間者の役を背負った。
仮に断ったとしても、土方はきっと沖田をダシにしてむりやりに負わせただろう。
伝統もしきたりも、ただの不良グループみたいなものを新選組なんて組織にまで仕立てあげた男には関係がない。
いわば、女は“目をつけられた”のだ。
ならば、それを逆手に取ってやろうと考えたまでだ。
「三谷…高杉か」
土方のこぼしたつぶやきはもちろん女の耳には届いていない。
かぐやの太夫。
女にはそんな異名がついていた。
どんなに珍しい舶来のものを贈られても、価値のある絵巻を贈られても、驚きの表情も、眉ひとつ動かすこともしないままで礼を述べるだけの女に、いつしか島原に通う男たちはそう呼ぶようになった。
女にしてみれば高価だというはちみつも、真紅の薔薇もさして珍しいものではなかった。
母親に連れられて買い物にいったスーパーマーケットにはいろいろな形のビンにはいった、色の濃淡もさまざまなはちみつはこれでもかと並べられていたし、その店の一角には色も形もとりどりの花が四季を通じてあふれかえっていた。
とげのある真紅の花だなんて。と、なかには顔をしかめるものもあったが、女にはなんでもないただの花でしかなかった。
ああ、ひさしぶりに見た。と思うくらいで、絵巻なんてものを見せられてみてもその価値がいまいちピンとこない女にとって、それはただの古ぼけたぐるぐる巻きの物体でしかなかった。
その動じない女の様子に、藍屋の楼主は、さすがはわての見込んだ吉野太夫や。と満足そうに目を細め、客たちは女の驚く顔やよろこぶ姿を見るためにこぞって珍しい高価なものをかき集めるようになった。
そんな“かぐやの太夫”が今生のものとして大事にしているものを知ったら男たちはなんと思うのだろうかと女は思いつつも、淡い期待をひっそりとその胸に抱いている。
もしかしたら、あのカメラをみつけて贈ってくるものがあらわれるかもしれない。
そうしたら、満面の笑みで吉野の名を捨てることができるかもしれない。
女がそんな期待を抱いてからもうかれこれ一年が過ぎるが、それは未だいたっていない。
「お加減のいい日に…髪の毛を洗ってあげますね」
眠る沖田の寝乱れた襟もとと、汗を含んだ髪の毛をととのえてやりながら言って、加減のいい日にまた呼んで欲しいという意思を女は土方にしめした。
「今日の花代です」
こんどは風呂敷のなかからちいさな包みをとりだして女は言って、土方は目を通していた紙切れから顔をあげる。
「…いらん」
なにか収穫があったらしい。と、その様子から女は察し、なら…と土方に包みを押し付けた。
「なら、沖田さんのためにこれを使ってください」
いくら会津藩預かりといえども、その懐具合はあまりよろしくないだろう。
最近はどの藩も、金策、金策と走り回っている。
それならなぜ花街にくるのだろう。なんて女は疑問に感じてはいるが、無論、口に出すことはしない。
「足元みやがって」
苦々しく包みを受け取った土方に女はほんの少しだけ頭をさげた。
「今日はありがとうございました」
ああと土方はこたえ、沖田に目をむける。
「…ったく、面倒をかけやがる。…吉野」
女がはいと返事をすると土方はその顔から表情を消した。
「総司をやることも、お前をひくことも…無理だ」
わかってます。言って、女もまた表情を消す。
「だが…お前を置くことはできるぞ」
今度は黙ったままで女はうなずき、あともうすこし。とまた心の中でくり返す。
多いときで一日にみっつの座敷を女はこなしている。
夕刻の早い時間にひとつ、宵の口にひとつ、戌の刻から亥の刻のあいだにひとつ。
名代に自分付きの新造ではなく、わざわざ自ら花代を払い他の遊女を使うこともある。
それを払ってでも太夫の花代はけた違いだ。
吉野は商才があるなぁ。だなんて、結局は一番の儲けがその懐にはいる楼主はほくほく顔で言うけれど、女はたし算とひき算ができればおのずとでてくる行動だと思っている。
あともうすこし。
あともうすこしだけその懐を潤してやれば、島原をでることをあの楼主は許してくれるだろうか。
「失礼します」
先ほどとは違い土方に頭を下げることなく女は言って、担ぎ手の手を借りることなく駕籠に乗りこんだ。
花代も払わずしてこの手に触れてくれるな。
思った、すっかり太夫の体でいる自分に女は笑う。
あともうすこし。と言い訳をして私は背負うべきものから逃げているのだろう。
思わず涙がこぼれ、震えてしまいそうになるからだに女は緊張をはしらせる。
私が背負うべきものは吉野などという名ではない。
彼に…愛する者に待ちうける死だ。
ひどく冷たい表情をした女は、あともうすこし。と自分に強く言い聞かせる。
私がこの時代にきてしまったのはおそらく、沖田総司の死を背負うためなのだろう。
ならば、それを負わずにしてどうするというのか。
あともうすこし。
あともうすこしで、それをこの身のすべてで背負ってやろう。
命を繋ぎとめることも、濁流のように渦をまいて流れていく時を変えることもできないのならば、迫りくるものを正々堂々、正面から受けとめるまでだ。
大夫にまでなれた自分にはそれが立派にできるはずだ。
どの太夫道中よりも、どの座敷よりも完璧にそれをやってみせる。
愛する者が最期まで新選組、沖田総司でいるしかないのならば、その短い生涯にたくさんの花を添えるのは、この私のほかにいったい誰がいるというのか。
担ぎ手は一瞬、駕籠のなかから嗚咽が漏れるのをきいた。
しかし、藍色ののれんが揺れる店先で駕籠からおりたった女は、乗るときと変わらず毅然とした体であった。
首をかしげた担ぎ手は嗚咽のかわりに、女からほのかな血の匂いと、ちりんというちいさな鈴の音を感じた。
[背負うべきもの 了]
【つづく】