床から起き上がれぬ日は今日で幾日を過ぎたのか。
吐く息までもが熱を持っている。
彼女の細い指がそっと額に触れる夢を見た。
きっと、不義理な男だと島原にいる彼女は怒っていることだろう。
「…総司」
低く響いた、どこか機嫌の悪い土方の声に沖田は眉根をよせて目を開けた。
「なにか…ご用ですか?」
がさがさの声で言われた言葉に、薬だとぶっきらぼうにこたえた土方に沖田はかぶりを振って笑う。
「土方さんの薬は…効かないからいりません」
言って、また目を閉じようとすると襖の開く気配がした。
「今日は土方さんのおくすりではありませんから…大丈夫ですよ?」
彼女の幻を聞くまでになってしまったのか。思いながら沖田は熱を帯びた息を吐く。
「吉野、どういう意味だ」
苦々しく吐き捨てられた土方の声とくすくすと笑う女の声に沖田はがばりと身を起こす。
女はあわてた様子で盆を傍らに置いて、そんな沖田の背中に手を添えた。
「○○さん…?」
こら。という土方の焦りの声とからだを支えている女の姿に、沖田は目をしばたたかせる。
目の前にはたしかに沖田の想う女の姿があった。
くらくらとする意識は飛び起きた衝撃によるものなのか、目の前にいきなり現れた女にもたらされるものなのか。
「いきなり起き上がっちゃダメですよ」
熱もまだあるんですし。などと言って、額にそっと触れたすこし冷たい手を掴んだ沖田は怪訝な顔をする。
「なぜここに○○さんがいるんです?…お座敷はどうされたんですか?」
沖田の言葉に女は笑って土方に目をむけた。
「土方さんから昼膳のお誘いがあって…そのまま今日は土方さんと過ごすことに、藍屋ではなってます」
冗談めかして言われた女の言葉に、ふんと土方は鼻をならし立ちあがる。
「吉野、時間になったら駕籠を呼んでおく。…花代は総司に“貸し”だ」
女がはいと返事をしても、土方が機嫌の悪い気配を漂わせたままで襖をぴしゃりと閉めても、沖田は手を掴んだまま怪訝な顔をしていた。
「いつから…土方さんとそんな仲になったんです?」
なっと女は頬をふくらませ、沖田に掴まれたままの手をやさしく取った。
「なるわけないじゃないですか。…秋斉さんの目を盗むために土方さんが協力してくれただけですよ」
もぉと女は怒ってみせて、沖田もへそを曲げたように口をとがらせる。
「ズルいな。そうやって私のしらないところで…土方さんとふたりでコソコソするなんて」
その言葉に、こらえきれないといった感じで女はおかしそうに笑って、沖田もちいさく笑ってからそのタンポポのような笑みに手をのばす。
「…私のなかには、沖田さんしかいないんですよ?」
頬をなでる熱を持った手を大事そうに抱える女に、知ってます。とこたえ、沖田はそれを抱きよせた。
いま、彼女が綿毛になってしまったとしたら。
それを追いかけて、すべてをかき集めるだけの力は己のなかには残ってはいないだろう。
思いながらそのぬくもりをのがさぬよう女を抱く腕に沖田は力をこめた。
「あ…おくすり」
腕のなかで聞こえた女のつぶやきに、沖田はため息をつく。
どうせ治るものじゃない。
不治の病だとわかっているくせに。
そんな沖田に気づいてか女はひどく明るい声をだした。
「滋養にいいんですって。朝鮮のにんじんを煎じたものですから…すこし匂いはきついんですけど…」
腕のなかからぬけでた女が湯のみをさしだし、ツンとしたくせのある香りが沖田の鼻をくすぐった。
「でも、はちみつをいれましたから…すこしは飲みやすくなってると思いますよ?」
沖田は湯のみを手にしたままで女の顔をみる。
「そんな高価なものばかりを…なぜです?」
女はなんともないというふうに笑って、湯のみをかたむけるよう沖田にうながした。
「いちおう…私はびっくりするくらいの花代がいただける“吉野太夫”ですから。…いくらお金をつんでも探し物がみつからないのなら、せめて沖田さんのからだによさそうなものをって思って」
いままで味わったことのないような、苦いとも辛いとも、ましてや甘いとも言えない、とにかく沖田の口には到底あわないような味をそれはしていた。
仕方なく半分ほど飲んだ沖田は女に言葉をむける。
「これ…○○さんは飲んでみました?」
女は困った顔をしてから、すこしの後に首を横にふった。
そうですか。と沖田はこたえ、黙ったままで湯のみをかたむけた。
その薬を一気にあおったあと、沖田はまた女を引きよせた。
「沖田さん…?」
そっと頬をなでられた女は目を閉じ、沖田はそれに唇をよせる。
そしていつになく強引に舌を動かし女の口を割った。
「…っ!」
咥内にのこしていた液体を女の口に流しいれた沖田は慎重にくちびるをはなし、いたずらっぽく笑う。
「滋養にいいのなら、○○さんも飲むべきだ。すこし…無理をされているのではないですか?」
まばたきをくり返している女に、さぁ飲んでと沖田は言う。
その目にうつる女の姿は以前よりすこしだけ痩せている。
細い喉をうごかしてから女は息を吐いて、ちらりと沖田に目をむけた。
「ひどい…」
くすくすと笑った沖田は女の背にゆっくりと手をすべらせる。
「ひどくなんかないですよ。○○さんだって私に飲ませたじゃないですか。…これなら土方さんの効かない薬のほうがマシかもしれないな」
「やっぱり…ひどい」
せっかくたくさん用意したのに。と泣きそうな顔をする女に愛しさを感じた沖田は、もうからかうのはよそうと、そのすこし色の悪い顔をのぞきこむ。
「…冗談ですよ。きちんといただきます」
ありがとう。とささやいてから、そっと触れるだけのくちづけをした沖田は女を抱きすくめる。
全身で感じる愛しい女のぬくもりに目を閉じ、このまま抱いてしまおうかなどと考える。
最近は血を吐くということにもすっかり慣れてきてしまっている。
ならば…と考えてみても、沖田のからだはぴくりとも反応せず、逆にすこしの会話だけでひどく疲労感を漂わせていた。
「…おやすみになられますか?」
そんな様子を察するように女は言って、沖田はあまえるように感じているぬくもりに頬ずりをする。
「ずっと前みたいに…○○さんもしてくれるなら」
つぶやくように沖田が言うと、女は笑ってそのつもりです。とこたえた。
となりに寝そべっている腕に抱くぬくもりにずっとこうしていられたらどんなにいいだろうと沖田は感じていた。
何もかもを捨ててずっとこうしていられたのなら。
「土方さんのせいにして…○○さんを朝までここにいさせてしまおうかな」
ほとんど本音の冗談を沖田が言うと女はちいさく笑った。
「そんなことをしてしまったら…また土方さんに怒られちゃうじゃないですか」
その言葉に沖田がまた?と顔をむけると女はその瞳を伏せた。
「このまえ…土方さんがお座敷にきてくださったときに…沖田さんを私にくださいって言ってしまったんです」
ダメだ。の一言で一蹴されてしまいましたけど。女は言って、いまにも涙をこぼしそうな瞳をむけた。
「一番組の長の名も、新選組の名もすべて沖田さんから外して…ただの“沖田総司”を私にくださいって言ってしまったんです」
ごめんなさい。と女は涙をこぼし、沖田は目を閉じる。
もうこのからだでは、ひとつの組を率いることは無理だ。
だから私を一番組からおろしてください。
沖田自身も幾度か土方にそう懇願していた。
が、沖田の懇願で唯一かなったことと言えば、他の隊士からはなれた場所にひとり部屋をもらえたことだけだった。
『新選組にとって沖田総司の名はなくてはならないものだ。
近藤さんが局長で俺が副長であるかぎり、新選組一番組の長は総司、お前じゃなくて誰がやる』
「沖田さんの歩む道をじゃましない。
あなたに待ちうける未来を知っていても、笑っていると約束したのに…やっぱり私は…こわいの」
あなたが…いなくなってしまうことが。
嗚咽をもらす女をぎゅっと抱きしめてから、その涙を拭い目元だけで沖田は笑ってみせる。
己の感じている恐怖を彼女もまた、感じている。
それでも前へと進むしかないのだ。
時に逆らうことなどできるわけがないのだから。
「もし私をもらえたら…○○さんはどうするつもりだったんです?」
嗚咽がおさまったあたりで沖田がおだやかな声音で言うと、女はほっとしたようにもう一度ごめんなさいと言ってから意志のこもった声をだした。
「新選組の隊士さんでいう…休息所みたいなものを用意しようと思っていました」
え?と沖田は涙を拭う女を信じられないといった感じでみた。
休息所などという名称ではあるけれど、それはただの妾宅だ。
「沖田さんをこっそりかこってしまおうと思ったんです」
やはり突飛なことを考える。沖田は息を吐く。
「そんなこと…できると本気で思っているんですか?」
なんともないと言わんばかりに女はこたえる。
「だって…お座敷をがんばれば、いくらでも花代はいただけますし…私が私を身請けするお金だってできるじゃないですか」
信じられない。
今度は声にだして沖田はつぶやいて、女を抱いていない手で顔をおおう。
「なんだって○○さんはそんなに…」
好きだから。
沖田の言葉を最後まで聞かずに女は口をひらく。
「沖田さんが好きだから…あなたを好きになってしまったから、私はあなたのためならどんなことでもします。
吉野太夫だなんて、ほんとうは私にふさわしくないような名だって、地位だって立派に背負ってみせます。
…私は、沖田さんのためならなんだってするんだから」
意志のこもったいつもより低い声に、島原の道筋でみかけた女の冷たい表情を沖田は思い出す。
あれはきっとそのあらわれだったのだろう。
思考を巡らせた沖田のからだは熱をまた発していた。
はぁとその熱のこもった息を吐くと、女は沖田をその胸に抱えるようにした。
「それだけ…私は沖田さんが好きなの」
沖田さん、沖田さんって、私のなかはあなたでいっぱいだったのに。
あの日、沖田の世界をかえてしまった、泣き叫ぶようにして女の口から言われた言葉。
目の前にあるやわらかなぬくもりに頬をよせた沖田はそれを思い出し、後悔の念を抱く。
好いた女にこんなことまでさせてしまって、何もできないでいる己。
金品もましてや、おそらく彼女が知らないでいる、女の悦びすらも己は与えることができない。
それなのに彼女は。
「私も…沖田さんの笑顔が見ることができるならそれでいいんです。
…大好きなあなたの笑顔が私にむいていてくれればそれでいい。私は、それをあなたに望みます」
ね?と腕をゆるめて女は沖田の顔を見ようとした。
けれど、沖田は女のふくらみにしがみついたままで肩を揺らしていた。
「沖田さんって…ほんとうは泣き虫さんなの…?」
女はまた沖田を胸に抱き、ふふふと幸福そうな笑みを漏らした。
「…泣き虫は嫌いですか?」
好き。
沖田をぎゅっと抱きしめた女は、すっかり薄くなってしまった背中をとんとんとやさしくたたいた。
[つづく]