キラノート

キラノート

Angel Vo&Gtのキラのブログ

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私は肘掛け椅子に座り、食べ終わった後の汚れた皿を眺めていた。
ああ、なんということだろう。
タバコに火をつけ私は中空に視線を向けた。

「よく食べたね。」
ユミコはそう言うと皿の片付けに取り掛かった。

「ちょっと待ってくれ。」

「え、なんなの?」
怪訝な声でユミコが聞く。

「しばらくこうしていたいんだ。」

「はぁ…」

私は平らげてしまったんだ。おなかがいっぱいだ。しかし私はまた同じことを繰り返す。これには終わりがないんだ。嫌になるだろ?だけどキミは別にそうは思わないだろ。なぜならそれが人生というものだと知っているから。だがオレは納得がいかず、全てが嫌になるんだ。だからこのことについて…これを本当の最後にしたいんだ。でもこれを最後の皿にするにはどうしたらいい?今、それを考えている。だから少し待ってくれ。時間がほしい。

最後の皿にしたはずの皿はいくつもあった。

「じゃあデザート食べよっか」

バカだな。私はすでに食事を終えたんだ。これ以上入るわけない。そうやって欲望のままに際限なく次に繋げようとするのはやめろ。行き着く先は破滅しかない。

「アイスがあったよね」

やめろ。全ては終わっているんだ。私は私という書物を書き上げ、ピリオドを打って本を閉じたのだ。ダラダラといつまでも同じパターンを続ける物語は幕を閉じたのだ。

「あれ?泣いてるの?」
ユミコが不思議そうに顔をしてこっちを見つめている。

「ああ、嬉しくて泣いてるんだよ。それよりアイスじゃなくてリンゴがいいな。皮剥くからナイフと一緒に持って来てくれ。キミには片付けを頼むよ。」

そうだ、それが私の最後のやるべきこと。

私はこの果実にナイフを突き立てなければならない。そしてこの書物を燃やそう。

私はキッチンで洗い物をしているユミコの背後に立った。

「なーにー?」

「片付けありがとう。」

そして、私は果実にナイフを突き立てた。

「ちょ、ちょっとやめてよ」

「こういう状況が、良かったんだろ?」

そして、私は私たちの書物に火をつけた。
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おなかいたい!

食べすぎた…。。。

こうして食べすぎたときはいつも思うのだ。

一体何がおまえを埋め合わせる?

これで気が済んだか?

なんにも解決してないんだ。

むしろ事態は悪化するばかり。

頭痛薬をくれないか。

頭がいたくてわれそうだ。

全てはこのオレがわるい

なにも考えるな

苦しみだけがつづいていく

永遠に苦しみだけがつづいていく

なにも考えられずにのたうちまわっているだけなのだ

地の底を這い回る

目の前を虫が歩いていく

ああ、おまえがうらやましい

元気そうじゃないか

その元気をくれないか

くれないのか

向こうへ行け

笑っているな

オレが死ぬのを待っている

虫どもが

皆殺しだ

元気になったら

ああ、元気になったら

何もかんがえることが

もうできない
ぼくは言語障害なんじゃないか。そう思えるくらい、頭の中に言葉が浮かばない。何かを言おうと思っても頭の中に浮かぶのはいつも断片的なイメージだけで、それがきちんとしたまとまりをもった一つの文章としてすらすらと出てくることはまずない。おそらく物書きでもない限り、普通の人はみんなそうだろうけど。つまりぼくにとって文章を書くということは、非常にストレスを感じることなのだ。小学生の頃、作文の授業は苦痛で仕方なかったし、大学受験の時の小論文も試験時間内に書き上げられることはまずなかった。文章を読むのも苦手だ。文章を読んでいても、全然頭に入ってこない。いつも途中で文字を目だけで追っていることに気づいては戻って読みなおす、ということを繰り返してしまう。いつも違うことを考えてしまっている。集中力がないだけかもしれない。とにかくぼくは、いつもうわの空なのだ。断片的な文章をとにかく適当に書きだしてみて、そうしてから後で文章を構成する言葉の配置を変えたり、接続詞を補ったり、語尾を適切な形に変えたりして、なんとか形になるように整理する、それがぼくの文章の書き方で、また喋るときも同様で、とにかく言葉など出てこない。頭の中には抽象的なイメージしかないのだろう。言語処理能力に原因があるのかもしれないが、他に考えられる原因としては、ぼくはそもそも言語的な表現に、言語で表現することに興味がない、意識が向かわないのではないかと思う。言葉よりも気分的なものが先立つというか、それは他人から見れば社会性がないとか、コミュニケーション能力がないとかみなされて、いつも言語が支配的な世界からすれば、劣位に置かれる立場にあるのだが、それに対してはぼくは腹立たしく思うこともある。しかし言葉がないと回って行かないのだ。一言で言えば、ぼくは言葉で何かを表現することに、向いてない。しかしそのぼくが何かを言おうとしている。
こないだマッサージ屋さんに行ったんですよ。
あまりにも身体がガタガタいってるもんでこれはやばいなあということで。

ま、とりあえず池袋で近くて安いとこがいいなと、なんか60分3000円みたいな、そのくらいのとこで適当に選んで行きまして。

そのお店は中国人か台湾人の方が店員をされているとこで、で、受付すませて個室っていうかカーテンで区切られてるスペースに案内されて、んでベッドの上にそれ用の服が置いてあって、これに着替えて下さい、ってことで着替えはじめたんですよ。

上下着替えるわけですけど、上の方は半袖のシャツみたいなやつで、あ、これは間違えないようにしよう!と思ってたんですね。

ていうのは以前別のマッサージ屋さんで、台湾式リフレクソロジーのお店に行ったことがあってそのときも専用のお店の服に着替えるんですけど、普通のシャツの着方できたら、逆だ、と。背中がひらくように着てください、って指摘されたことがあって。んで、マッサージ屋では逆にシャツを着るんだ~、と学んだわけですよ。

なので今回も、この服の着方はこうだろう、と背中がひらくように着て、座って待ってたんですね。

「準備デキマシタカ~?」

って声がしたので、はーい、と言うと店員さんが入ってきて、そしたら、

「チョ、チョット…!」

(えっ…なに…?)

「逆デショ…!」

って言われたんですけど、
このときの面白さは

たぶん伝わらない。

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木曜日は駒場にある小さいカフェでランチした。
Bleu Tableというお店。

おもしろいトマトソースだったな。
トマトたべて元気になった!
人間はものをよく書く生き物のようで、さてどんなもんかといくつか小説なるものを読んでみたことがあるが、そうすると目に映る映像とは違う想像力によって構成される世界があって、不思議な感覚になるものだ。

このエンターテイメントは菅原孝標女が更級日記で書いているように、大昔からあるもので、人間を惹きつけてやまないものだ。

では私も、とカラマーゾフの兄弟など長く有名なものからケータイ小説までいろいろ読んでみたが、小説といっても、ものによってどんな心構えで読むべきものかまったく違うものであって一口に小説が好き、とは言えないもので、それと似たこととして音楽が好き、と一口に言えないのと同じようなものと感じる。

そんな中でひどく感情を刺激する類の物語がある。例えば恋空というサッドストーリーが流行った頃、どんなもんかと私は小馬鹿にした心構えで読んでみたが、気づいたら涙が目に溢れていて、私は嗚咽していた。

泣けることが価値とは思わないけれども実際に多くの人間が泣けることに金を払うのは、それがある種の心地よさをもたらすからだと思うが、私はこの現実で起きている戦争や実際の人間が冒されている病気のほうが気の毒に思えるので、フィクションの世界で起きている出来事が現実を映さないあり得ない現実であるとき、その悲しみはどこからやってくるのかと不思議に思うが、それは人間が頭の中に構成しているイメージの世界における力学によってもたらされるものだと思う。つまり私たちが泣くのは現実そのものに対してではなくイメージの世界に対してなのだ。

あなたは、あなたのイメージとしてしか私に映らない。あなた自体などというものを知ることは決してない、なんていうと物自体は認識できない認識のみがあるという哲学に陥るわけだが、実際のところ世の中はそういったイメージが人を動かしそしてまたイメージを生産し、といったように回っている側面があるだろう。

愛することについてはどうだろうか。これについての結論としては、超越的存在からの愛のみが可能であり、人間同士の愛など鏡を見ているようなものだ、と言わざるを得ない。なぜなら他者自体は知り得ない、自分の構成したイメージを愛しているに過ぎないからだ。

では戦争はどうだろうか。憎しみはあなたの中にある世界が生み出したもの、といえるか。この個人を超えた社会的な出来事は、個を超えた集合としての振る舞いであるから別の視点による説明が必要だろう。

それを言うなら個人についても社会の関係の説明が必要だろう。私が小説を読んで泣くとき、私の持っている内なる世界は社会の影響を受けて構成され、そして私たちの集合がまた社会的現実を作ると、相互にフィードバックする関係になっているのではないか。

私が泣くとき、心から泣くのではない。泣くように体ができてるから泣くだけ。
そして私は誰も愛することも、憎むこともなく、また社会にそそのかされることもない。
私は超越的存在の使いだから。
なんか楽しいことないかなー
つまんない

なんて思うとき、その楽しいことって何かの会とか、ライブとかのイベントとか、食事、ゲーム、アニメ、マンガとかね、特別な出来事やコンテンツを求めてる状態だと思うのだけど、

そういうときは、ある。
それってなんかの不足を埋め合せるっていう活動だと思うのね。

空いた穴を埋め合わせるのは必要だけど、なるべく穴があかないようにしよう、そのために幸せな感情を溢れさせておきたいな、と思うの。

幸せな気分で満たすには、ことあるたびに能動的に自分自身で、あーいますごい幸せだなって意識的に感じること、体が幸せって言ってるのに耳を傾けて認めてあげるとうまくいくと思うの。

たとえばごはんを食べることについていうと、食事を済ます、っていう言葉は好きじゃない。やらなきゃいけないことをやりました、みたいな感じで暖かみや喜びがなく事務処理的な扱いに感じるからこの言葉を使うのは避けることにしてる。

なんでもない普通のごはんを食べて、ああ、おいしかったなー体がよろこんでるなー、って感じることで元気になるきがする。(オレの場合はたいていのごはんはおいしくて幸せを感じられる!)

人生はそれの繰り返しじゃないかな。
オレたちはいつも食べ終わったあとの皿を眺めてる気分だよ。
さあ片付けしなきゃ!、とも思うし、よかったーって余韻に浸りたいとも思う。

そんなときその場で共感できる人がいるといいよね。うん、うまい!ねーこれうまいよね?みたいな。ひとりだと、そういう言葉、頭の中で思うしかないから。

お仕事とか大変なこともあるけど、
その中で小さな出来事に対して
幸せな気分を大切にしたい。
また月曜日がきました。

キラのマンガ『ばぶばぶ』の音楽ニュースサイト「UROROS」への連載続いてます。
UROROSの編集さんありがとう。
ぜひみなさんご一読くださいませ。

ばぶばぶ @UROROS - ミュージックネットマガジン -http://uroros.net/column/babubabu011-013/




はじめて自分の力で稼いだ。
組織の力を借りずに自分ひとりで。

音楽でもマンガでもアプリでもない、やりたいことではないけど。

この地上で生きてくには、
仕方ないよね。

うまくやれたな。

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さいたまスーパーアリーナにジャネットジャクソンみてきた!

クオリティが高すぎて夢みたいだった、、
まるでファンタジー。
気持ちよすぎて寝すぎた。

白い花が入場のときくばられたけど…

何に使われたか謎。

最高のライブだったね。