美術鑑賞が趣味なのに、こどもができてからなかなか行けないという人が多いと思う。
個人的な感想をいえば子連れで展覧会へいってもゆっくり見られないし、落ち着かない。
それでもやっぱり行きたい場合は、こどもと楽しむように切り替えたらいいのでは、と思いついたのが下記のポイント。


あかちゃんのときはベビーカーに乗せられおとなしくしていても、歩き出したこどもと美術館へ行くのは大変。
美術館ではこどもと手をつなぐようにいわれる。
でも小さいこどもの手を握り続けているのはなかなか難しい。
こどもは興味があるもののほうへ走り出してしまうからだ。
3歳までのこどもは抱っこして見る、と考えたほうがいい。
こどもと親の目線の高さが同じになるため、こどもがなにに興味を示しているのか分かりやすいからだ。

今回は4歳以降のこどもと美術館へ行くポイントを書いてみる。

こどもと美術館へ行くときに気をつけること。
展示室へ入る前に「3つのおやくそく」をする。
1、さわらない
2、はしらない
3、おおごえをださない

こどもにも復唱させる。
とはいっても、気になるものがあると走り出して触ってしまいそうな勢いなのが、こどもの自然な姿。
「さわってはいけない」はこどもにとってかなりのストレスだということをまず理解する。

作品を見るときは、こどもと手をつなぎ、肩を抱き、ほおをすりよせ、まるでカップルのようにくっつくのがおすすめ。
体が触れ合うことでストレスを和らげ集中力を高める。
そして目線の高さを合わせることで同じものを見ながら会話ができる。

展示室に入ったら一点か2点選んで、作品の前に立つ。
そして「なにが見える?」と問いかけてみる。
「わからない」といわれたら、色や形、なんでもよいからきっかけを与える。
「あの上のほうになにかあるけど、見える?」「あそこに見えるのはなんだろう?」
こちらから具体的なことは言わないようにして、こども自身に発見させる。

「わからない」と答えるのは興味がないのではなく、情報が多すぎて何を言っていいのかわからないということだと私は考えている。
大人は無意識に、必要ではないと判断した情報を自然にカットして自分がほしいものだけ受けとっている。
大人は自分の興味あるものだけにピントを合わせるが、こどもはすべてのものにピントが合っている状態なのでなにから見ていいのか戸惑う場合がある。

そのときに、声をかけてあげることでひとつひとつのことがらに意識を集中させることができる。
ただしこどもの集中力は長く続かないので、作品の全てを見ようとしないで疲れてきたら切り上げること。


美術館に親しむポイント
1、見たいものをしぼる
2、展示室に入る前の準備
3、美術館を探検しよう

全ての作品を見に行くのではなく、一点でいいから親子で作品について会話してみる。
大人はあれもこれも見せてあげたいと思うが、集中力の切れたこどもには苦痛。
もし、いくつか見せたいものがあるなら再入場ができるか確認して一度退出しするのもいい。
外でおやつを食べたり、カフェでお茶をしたり、気分をリセットしてから「面白いものがほかにもあるんだよ」と誘ってみる。

「3つのおやくそく」を入る前に確認すること。
さわらない、はしらない、おおごえをださないことを毎回確認することで、親も子も気持ちの準備ができる。
一緒に見て楽しみたいから、約束を守ってほしいと伝えること。
守れたらほめてあげることも大切。

展示室を出たら、ほかにどんな施設があるのか探してみよう。
フリースペースや図書室、カフェなど、くつろげる空間が併設されている美術館が増えてきている。
見るだけじゃない美術館を親子で見つけてみる。

ゆっくりみるためには混んでいる企画展ではなく、常設展がおすすめ。
例えば東京都現代美術館は友の会会員になると常設展が無料になるので、気軽に足を運ぶことができる。


最後に「今日はなにをみた?」と聞いてみること。
「わかんない」と言われるかもしれないし、「○○があった」と応えてくれることもある。
言葉が出にくい子は絵を描かせることでこどもがなにに興味があったのか知ることができる。
親が先に感想を言わないこと。
もし反応がなかったとしても、このこの受け皿はまだいっぱいではないのだと待ってみる。
数日後に感想が出るかもしれないし、でないかもしれない。
あるとき水があふれるように反応しだすこともある。
親はただ見守り、場を用意してあげること。











「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
会期:8月1日~11月3日
会場:横浜美術館、新港ピア



今年で5回展となるヨコハマトリエンナーレ。
アーティステッィク・ディレクターは森村泰昌。
第1話から11話まである「忘却」を巡る旅がどうなるか楽しみにしていたが、最初の序章でつまづいた。
マイケル・ランディ《アート・ビン》
テレビで森村泰昌の作品を投げ捨てるのを手伝うこどもたちのとまどうような表情が印象に残り、自分のこどもにも体験させたいと考え申し込んでみる。
結果的に、15歳以上の作品でないと受理されないことがわかり実行できなかった。
学芸員の方から、著作権の放棄するという意味がわかる年齢が15歳だとマイケル・ランディが考えているためだと丁寧な説明があり納得した。

私は、作品か作品でないかを判断するのは誰なのか、という問いかけとしてのゴミ箱なのかと思っていた。他人にとって作品に見えるものが、作家にとっては「これは作品ではない(自分の作品として認められない)」ものであるとき、作家がゴミ箱に捨てることで周囲も認知する。
あのとまどうような表情をしたこどもは作品と非作品の境界を漂っているようだった。
その感覚が面白いと感じたのだが、マイケル・ランディの意図とは違っていたようだ。

今回こどもの作品を申し込んだため拒否されたが、大人の作品を投げ捨てるのをこどもに手伝わせるというのなら了解されたかもしれない。



第1話、3話の理論的、思想的な作品を見た後に第2話[漂流する教室にであう]に出会ったときのインパクトは大きかった。
《釜ヶ崎芸術大学》
大阪のあいりん地区にある釜ヶ崎芸術大学は2012年に開校。
独自の設備を持たず、いくつかの会場を使いながら授業を行う、まさに漂流する教室。
NPO法人が運営するココルームが主催している。
ココルームの活動、そこで生まれた作品を展示したのが今回の作品だ。


普段何気なく飾られていたものが「すべてのものは『見せ物』『見せられ物』になってしまう。ああ美術館、なんと特殊な場所。」とココルームのぽえ犬通信に書かれていた。
実際より「見せ物」化した展示構成かもしれないが、それでもなお、そこに生きている人々の息遣い、悩みや人生の重みといったものが見えてくる。
一人ひとりの生きざまがそこに立ち現われていることに胸を打たれた。




次に印象に残ったのは第6話[おそるべき子供たちの独り芝居]だ。
坂上チユキ


坂上チユキは2008年の汐留ミュージアムで開催されたアールブリュット展で初見した作家だが、青の非常な美しさと細密な描写に魅了された。
幼いころの記憶が呼び起こされる、眠る前に目を閉じるとまぶたに映る不可思議な形、世界が粒子でできていると知った時、自分もつぶつぶからできているのかと驚いたこと。
遺伝子として受け継いできた、太古の記憶がふいに目を覚ますような胸の熱くなる思い。



無料バスで新港ピアへ移動。
第11話[忘却の海に漂う]
土田ヒロミ
「原爆の子」のその後を撮影した作品。
それぞれの歩んだ人生、一人ひとりの異なる思いが伝わる。
大声で主張することは、同じ経験をした人は皆同じ考えであるかのような錯覚をあたえてしまう。
各写真から聞こえるのはささやくようなつぶやき、そして沈黙。
ひとりとして同じ声はいない。


松澤宥
夢の中で「オブジェを消せ」と啓示を受けて以来、言葉による創作活動をしてきた作家。
靴を脱いで展示をみせる、階段をのぼると茶室のにじり口のような狭い入口のある空間など、日本をイメージさせる展示に思えた。
コンセプチュアル・アートは冷たい感じがして好きになれないのだが、自筆の書道や手書きの文字に作家の真剣なまなざしが表れていて思わず引き込まれた。


大竹伸朗
《網膜屋/記憶濾過小屋》


立体版のコーネルのような、記憶の集積箱を積んだ大型車。
標本箱のような整頓された美しさとは異なる生の記憶をぶちまけたようなただずまい。
実際の脳の中の記憶箱はこんな感じかもしれない。
古い記憶が新しい記憶の層の下に隠され、混乱し、紛れ込んでいく。
忘れたというのは、覚えているが記憶箱のどこにしまったか分らないということ。
忘却は記憶箱にしまったことすら覚えていないこと。

今回のヨコハマトリエンナーレ、「忘却」をテーマに様々な切り口で作品を展示していて私のように感覚で見ている者でも楽しく鑑賞することができた。










改訂版について
このトークのまとめは、聞き書きをもとに文章化したものです。
お二人が話されたものを完全に再現しているわけではありません。

前回の文章に不十分な点があり、修正しました。
高柳さんと伊佐治さんには確認をしていただいた上で掲載しています。

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アートセンター・オンゴーイングで行なわれた伊佐治雄悟の個展で6月7日にトークイベントが開催された。
ゲストは美術家の高柳恵里さん。

このトークイベントのタイトルである「発見と成立」についての話から始まった。
実はタイトルの変更があったそうだ。
伊佐治さんは、髙柳さんにトークの依頼をした際に、「アイディアとしあげ」というタイトルを用意していた。
その後、髙柳さんから、そのタイトルはしっくりこないということで、「発見と成立」というタイトルを提案してもらったという経緯があったそうだ。
伊佐治さんが「アイディアとしあげ」を提案したのには、髙柳さんの制作方法には多分それと違った、超えるような何かがあると考えてご本人からお話を伺いたかったという意図があったということだった。

トークの流れは、伊佐治さんが質問し、高柳さんが答えるというパターンで進んでいった。

まずは伊佐治さんが、題名の「発見と成立」について、ある発見が作品として成立するまでにどのような苦労があるのかお聞きしたいということだった。
そして自分が最近始めた金継ぎの作品についてしあげ方で苦労した話をして、高柳さんに身近なものを作品にすることへの苦しみがあるのかと質問した。

それに対して高柳さんは、伊佐治さんのようなしあげに対する苦労というような同じ苦しみはないと思うと答えた。

高柳:制作の始まりはアイデアからだとは言えない。
最初は作品として成立するかどうか分からない、結果として作品になった場合に制作の始まりと言えるだろう。
そのきっかけは、自分の価値観が揺らいだとき、位置が危うくなる感触がしたとき、出来事として引っかかってしまう。
その引っかかりを何とかしたい、はっきりさせられるかもしれないというのが始まり。
そう感じるのは生活の中でおこる出来事なので必然的に日常的なものが多い。
扱いの仕方でだめになることもあるのでそれに敏感でいたい。
物とのつきあい方は対等でいたい。
自分の状態に対して関わっているものとしてとらえている。
全く知らないものとしてではない。
作品の素材としてとらえていない。


次に高柳さんの過去の作品について画像を見ながら解説を求めた。
●雑巾の作品について
高柳:これは雑巾を絞ったあと放置したもの。
展示したとき方法論や技術論として、どうやって固めたかとよく聞かれるがなにもしていない。形を保持するよう手を加えた瞬間に失われるものがある。
自然にその状態になった雑巾、そこに価値をみいだせるかどうか。
雑巾だからこそ、洗って絞ったまま自然乾燥になった状態がある。
高価な服ならあり得ない状態。
そもそも雑巾は汚いものなのだろうか。
物質的な状況が違うだけではないか。
自分の固定概念に対して立ち止まることが大切。
雑巾を固めるためにメディウムが介在するのはあってはならないこと。


●生け花の作品について
伊佐治さんが、これは生け花として制作したのか、花と花瓶という素材からアプローチしたのかという問いかけに対し、
高柳さんは、生け花の作法、文化を作品にしようとしたと応じた。
高柳:習得しようとすること含め、生け花ということ自体を作品にしてみたかった。
例えば、同じ飾りものの花でも、フラワーアレンジメントとの違いは何か気になっていた。
装飾品のようにその場に馴染んでいくようなフラワーアレンジメントのあり方と、生け花の周囲に溶け込まない異質感の違い。
生け花には、それ自体が宇宙である、と言ってしまうようなところがある。
このようなあり方は美術作品にもあてはまる。
私はその場になじむような作品ではなく異質なものとして在る作品にしたい。


●写真作品について
朝霧のかかる多摩川沿いの駐車場に一台止まっている車の写真。

高柳:車の広告写真を今までたくさん見てきた中で、あえて自分の車を撮ってみた。
何を撮っているのか、何が目的なのか分からないという状態になるのが大事なこと。
まず、車の機能を見せるためにすべてのドアを開けてみた。
フロントパネルをあけない理由はメンテナンス的な要素が強くなるから。
全部見せますという態度をとっていながらヘコミなどは見えない側に隠している。
素人のカメラマンが、自分の車をよく見せようとしてがんばるが、気付かないところが写真に露わになる。
素人の写真を撮るという異質感が現れた作品。
よく見てみると駐車場の路面がフラットではなくでこぼこだったりして、朝霧にかすむ背景のいい感じと路面の荒れ具合のコントラストが面白い。


●〈自由なシリーズ〉について
紙管、枝、カーテンなどが自分で自由と思う場所を作者が勝手に想像して決めるという作品。
東京ミッドタウンにあるインテリアショップでの展示では、お店を使った広い展示空間に物たちが置かれたい場所を高柳が想像して配置した。

高柳:求められることを演じてしまう物、「役者と監督の関係に似てる」。
逆さまに置かれた枝については、もともとおいてある壺に枝を置こうとしたら逆さまに置かれたがった。枝は自分の求められた役割を演じたのだ。
物に対する自分の認識が反映される。
自分が知っているものと知らないものがあからさまにでてきてしまう。

ここで伊佐治さんが、この作品を写真作品として制作したら物の位置は変わるかと問いかけた。
高柳:写真作品は写真を撮ることも作品に含まれるので、写真を撮るときでは変わるだろう。

作品の成立について、伊佐治さんは、自分は彫刻科出身なので、物を置いたとき空間がどう変わるか気になると語った。

高柳:見る人にとってより私自身にとってどんなことになるかの方が関心がある。
自分自身に手ごたえがあること、それが作品として成立する条件。
要(かなめ)になるのは私にとってどうであるか、私にとってはっきりしているのかということ。
例えば雑巾は(見る人にとっては)全く意味のない状態として考えている。
見る側に伝わるかということを考えることに違和感がある。
結果として伝わるということはありえるが、最初からそれありきなのはデザインの仕事ではないだろうか。
結果として見る人に共有するものがあるかもしれないが、伝えるためにどうするかと考えるのは分析やリサーチをすること同じ。
私のやることとは違う。


●〈定位置〉について
高柳:長方形の白いマットが壁にたいして少しずれたようにみえる作品。
実際は可動壁のずれを真っ直ぐに置いたマットで示している。
もとは自宅でマットがずれたまま放置していたことから、マットがずれているのではなく、その周りのものがずれているのではないかと考えたのが始まり。
マットの位置が定位置であるという考えから、マットのずれではなく家の壁を動かせばずれを直せるとした。
先ほどのインテリアショップでの展示のひとつに、備え付けの棚と置物を使った作品がある。
棚に置いてあった物を全て左に置くというもの。
最初に置かれていた位置が正しいとなぜ言えるのか、そこに引っかかるものを感じた。
そのひっかかりが作品になる。
テーブルっぽい立体作品は、インテリアショップなので近くに本当のテーブルが置かれている中で展示された。
これはテーブルではないのでひっくり返ったり壁に浮いていてもおかしくない。
木の板と木の棒と布でできているが、壁に浮いているものは留めるためのL字の金具がついている。
この金具は作品の一部であり、木材や布と同列の存在だ。

その他に、ソーサーの上で横倒しになったカップの作品。
ソーサーの半分ほどの高さに水が入っている。
水があることでソーサーとカップの形が浮き彫りになる。
そしてカップの形が水の形を変える。
カップや水がそれ自体ではなくなる瞬間。
日常の中で不意にやってくる。
自分の固定概念の中で生活しているのがあやしくなる瞬間。

なぜ私が異質なものを求めるのか、人間が生きていくことに対しての問題。
社会を形づくる秩序に安心感ではなく、不安を感じている。
秩序を外れることへの欲求が生きるということにつながる。
それは精神の開放につながる。


ここで伊佐治さんが、美術だから秩序を外れることができるのですかと質問した。
高柳さんはそうかもしれないと答えた。

高柳:私は、アイデアからではなく違和感から作品が生まれる。
アイデアとしあげという考えかたはデザインに通じるところがある。
展示場所に対してどう見せるか、観客にどう見えるかなどを考えていくことはデザインの仕事ではないだろうか。
デザインっぽいアート、アートっぽいデザインがあるが、デザインとアートの違いはなんだろうか。
デザインはクライアントに合わせて相手に応えるような作品をつくる。
デザインの力は社会的な問題を提起したり、隠れていた問題を見つけたりすること。
デザインは問題を共有することができる。
それによって生活を変え、生き方を変えることができる。
アートは社会の中でなく社会を超えて生きるもの。
人間として抱えてしまうもの、複雑でつかみづらいもの、デザインのように共有できないもの。
そこにふれる手段として芸術がある。


●作品の技術的な面に対して
高柳:東京都現代美術館のMOTアニュアル展の展示には何だか工芸を感じる側面もあった。ただ、技が作品の中で重要に見えてしまうのはどうなのだろうか。例えば、長年培われてきた素材に対しての技の魅力を感じることはしばしばあるが、それに比べて、日用品に対しての工芸的な技、というところで、技の追求に重点を置くことは、ナンセンスにも思える。
こういった作品でおそらく大事なのは、何をどのようにしたのか、何が起きているのか、どのような視点を持ったのか、という部分のほうが大きく見えてくることなのでは。
ただし、あまりに技が稚拙すぎてそちらが気になってしまうと、別のことになってしまうので、それはそれで不味いが。



最後にお客さんからの質問があり、展覧会などで見られることを意識しないとおっしゃっていたが、それならなぜ展示するのか、高柳さんにとって展示することの意味とはという内容だった。
高柳:見る側が作品を見て引っかかるような気がするというような反応をしてくれるのはうれしいし、そもそも自分自身が過去に他人の作品を見てなにかを発見したり考えたりしたことが今に通じている。


以上がトークのまとめになります。
@ya-gins
2014年5月17日~6月15日

アーツ前橋へ行ったあと立ち寄るギャラリー。
ヤ-ギンズのある弁天通りは、白川昌生の開催した祭りを行った場所である。


中崎透は水戸で遊戯室というオルタナティブスペースを運営しつつ、作家活動もするアーティスト。
白川昌生展にも出品している。

アートスペースを運営しているアーティストというと、ヤ-ギンズの八木隆行がそうだが、相模原にある洞窟現代の清岡正彦もそのひとりだ。

いずれも現在のアートの現状を変えたいと活動する志士である。
《道草アート》
道草という言葉に、この作品は気の向くままに集めたものたちの集合体なのだろうかと思った。その空間は作家のアトリエを再現したかのようだ。
立体作品でよく使用する建築材やビールケースで組み立てられた棚には群馬に関係した物や手元に置いておいた物が並ぶ。
後ろの壁には今までの活動で制作された作品が貼られている。
作品になったもの、ならなかったものが組み合わされ、立体曼荼羅のような趣だ。

曼荼羅といえば、《コンセプト・ノート》は若いころの白川昌生のメモ書きが壁一面に貼られている。思考の奥行きの深さ、幅の広がりは小宇宙を思わせ、頭の中をのぞき込んでいるような面白さがある。






富井大裕と白川昌生が共同制作した《プライベート・ステップへ》は富井が提示し白川が制作、《市民的マテリアルNO.1(赤城山)》は、その返答として白川が制作手順を示し富井が実際に制作するという刺激的な作品だ。
これに関連するのだろうか、展覧会ワークショップに「白川昌生の〈誰でもアーティスト〉」というのがあったようだ。
白川昌生的アートの作り方を実際に手を動かしながら学ぶというものだ。

富井大裕の色紙をくしゃくしゃと丸めて置いた作品を初めて見たとき、「直下に見よ」と言われたような衝撃を受けたことがある。
知識を捨てて物自体を眼差すこと。
古美術に通用する見方を現代美術に応用したときに今まで見えなかった美しさを感じたものだ。
白川昌生の立体作品は物自体の美しさがありながら、物が持つ日用品としての意味はそのままに素材や構造の組み合わせの妙味、物が語る背景などが重なりあい現れる奥行き感がある。

開館記念展の「カゼイロノハナ」を見たときには、こんなすごいアーティストだと気づかずに通り過ぎていた。
白川昌生の今までの活動を展観した見ごたえのある展覧会だった。


地域に生きる想像☆の力
@アーツ前橋
2014年3月15日~6月15日

たまたま前橋に行く用事があり、しかも「ダダでタダ」という合言葉を言うと無料になるというイベントをやっていると知り(5月31日、6月1日)行くことにした。

白川昌生はヨーロッパに渡ったあと群馬に拠点を置いて活動しているアーティストだ。
地方で活動しているアーティストのイメージは寡黙に制作を続ける世捨て人タイプか、作品は東京のギャラリーで展示する、大都会中心主義タイプのどちらかと思っていた。
白川昌生はそれらとは一線を画している。
群馬の片隅でアートの可能性を叫ぶ、その思考の広がりと思いの深さにノックダウンされた。


《駅屋の木馬》
前橋市の美術館構想プレイベントとして、白川昌生が開催した祭りだ。
祭りの由来を示す物語を考え、それを地元の人々とともに祭りに仕上げた。
「木馬だ木馬だ、だ、だ、だ」という掛け声が、明治時代に日本に滞在していたヨーロッパ人を通して伝わりダダイズムが生まれたという。
「ダダ」がフランス語で「木馬」を意味するというダジャレから発想されたのだとしても、私には本当にありそうなお祭りに思えた。
私の故郷、青森県南部地方はかつて馬の生産地であり、馬は愛し敬う存在であった。
馬の張子はチャグチャグ馬コを思い起こさせる。
また、南部地方には「ナニャドヤラ」という意味不明の歌詞がついた盆踊りがある。
その由来には新郷村にイエス・キリストが逃げてきたという伝説があり、「ナニャドヤラ」とはヘブライ語で「御前に聖名をほめ讃えん」だとする説があるのだ。




《フィールド・キャラバン計画》
何枚ものスノーボードを巨大な円環に乗せた立体と白川のスノーボード体験などの映像から構成された作品。

白川昌生が50代後半でスノーボードに初挑戦し、スノーボーダーたちの中に分け入り、彼らの文化を体感したという話は、文化人類学者のフィールドワークに共通する部分がある。
たくさんのスノーボードには持ち主がつけたキズが無数にある。その一枚一枚に個性が現れている。
これらは単なる素材ではなく、スノーボードが自らの物語を一枚ずつ語りだしてくるような存在感がある。



アートイベントが日本各地で開催されていくことに、ある種の疑問があった。
なぜ東京など大都市から来た人がプランを立てて、都会からきたアーティストが作品をつくるのだろう。
一時的な町の人とのコラボレーションでアーティストは満足しているのだろうか。

白川昌生の作品は対象となる地域の人の一人一人がくっきりと浮かび上がる。
作品をつくるというより個々を掘り下げることでつながっていき全体像が現れる。
そんな印象を受けたのが、《ぷらっとフォーム計画 前橋編》だ。

青森の八戸市に2011年にできた八戸ポータルミュージアムはっちで開催されたアートプロジェクト「八戸レビュウ」も個人を取り上げることで八戸の街を浮かびあからせるという好企画だったが、その手法には白川昌生の影響があったのではないかと今になって思う。

白川昌生の姿勢に共感を覚えるのは、自分の住んでいる地域を丁寧にすくいあげて作品化しているところである。
外部から来たアーティストが美化したり、感傷的になってつくる作品とは異なる。


「私は、世界と地域、地方の知られざる関係、その生活、歴史について深く考えさせられた。私自身、そうした出来事、関係にもっと敏感で、繊細でなければばらないと思い至ったのである。」(「赤城山のふもとにいきる」図録より抜粋)




MOTアニュアル2014フラグメント関連企画のアーティストトーク。

福田尚代と展覧会企画担当の森学芸員が対話する形式で行われた。
福田尚代の言葉を完全には追えていないが、その断片を書き記したい。


最初は翼あるものの話から、なぜ一冊だけの展示になったのかとの問いかけに、
「森さんは以前の展示を見て、翼あるものがたくさん空を飛んでいるような感じにしたかったのかもしれませんが、みんないなくなってしまった。会話ができなくなってしまった。
生きもの(翼あるもの)が誕生してから6年間対話していたことに気づいた。
最後の一人だけ残っていたので展示することができた。」

企画書に「孤独」というキーワードがあったことについて、「孤独」は今回の展覧会で特に感じたのか、それとも以前から福田の中にあったものなのか、と訊かれて
「みんな死んでしまったので展示できないとは企画書に書けなかったから、孤独という言葉がでてきた。
でも、いつも孤独が側にいた気がする。
人対人で作れる人は幸福だと思いますが、私は一人でしかつくれない。
一人でしかできないこと、一人という制約の中で作るのは回文とも共通していて、私が書こうと思わないことを書きたい。私じゃないところから現れてくる言葉を求めている。
色鉛筆もまたもろい素材なので思い通りの形にできない制約がある。

一人であるというのは、私からも一人になりたい、私から離れたいという意味。
一人であることをつきつめると深く潜れる。
私すらいない状態。

その後、言葉について説明する福田尚代に、森学芸員は「言葉は霧、雨、雪のように循環しているのですか。場所によって状態や見え方が変わるということでしょうか」と問いかけた。

福田は「バートルビーは沈黙する人ですが、沈黙の間にも小さい言葉が霧のように降り積もっている。彼岸と此岸が溶け合う、言葉にわけへだてのない世界。
自分を手放したときにはじめて見ることのできる世界だと思う」と語った。



もっとたくさん語ってくれたが、密度が濃くて全部を追うことはできなかった。
Twitter上で福田尚代自身が書き記したもののほうが全体がつかめると思う。
彼女は言葉の扱いがとても上手なので、言いたいことがそのままの形で伝わる。

感想としては、正直に自分の思いを語れる人、分かりやすく伝えたいと言葉を選んで話すことのできる人。
自分の作品を「私的な行為の結果として現れ」なのだと言い、それについて驚いてみせる森学芸員に「ぜんぶそうなんですもの、それ以外にあるんですか」と困ったように語る福田尚代の姿はとてもチャーミングだった。
そして、現実世界ではとらえられない自分の話をするときのひたむきで真剣なまなざしに心打たれた。

全ては分かってもらえないかもしれないが、少しでも伝わってほしいという思いをこんなにも強くもつ作家に初めて会った気がする。
それは、一人であることを追求するあまりの、他者を求める気持ちの現れなのかもしれない。

大田区鵜の木にあるギャラリー「hasu no hana」で2014年4月1日まで開催していた伊佐治雄吾の個展。
商店街にある元写真館を改装したおもむきのあるギャラリーでした。


伊佐治雄吾の作品は、人工物を使いながら自然現象のような美しさがある。
作家の意思ではなく、素材がおのずと変容していくような不思議なたたずまい。

ホチキスを使った作品

もし素材が粘菌のような原生生物なら、こんな姿になるのではないかと思わせる。
伊佐治は、素材の隠されたもうひとつの姿を形にする手助けをしているかのようにみえる。

プラスチックのボトルを使った作品。


今までの伊佐治作品はそんな趣きが魅力だった。


今回は新作として、陶磁器のカップを使った作品が展示されていた。
カップの内側を外側にひっくり返し、金継ぎでつないでいる。
なにがなんでもカップをひっくり返したいという思いが作品から感じられた。


この作品が生まれたきっかけを作家が話してくれた。
ある展覧会のワークショップで赤瀬川源平の「宇宙の缶詰め」を作ろうというのがあった。

それを見て、赤瀬川の作り方はカニ缶の内側にラベルをはりかえるだけ、完全な逆転じゃない。
自分は完全に逆転した宇宙を作りたい。
と、考えた結果、陶磁器のカップを砕いて金継ぎすることにしたそうだ。

以前の作品と違うのは、作家の思いを強く感じてしまうことだ。
ひっくり返されたカップからは、戸惑いの声が聞こえてくる。
私は本当にひっくり返りたかったのだろうか、と。

一つ一つの破片が大きいからかもしれない。
カップとしての意識を失わせるくらい細かく砕いて細胞のようにしてからつなぎ合わせていったら別の意識が目覚めるかもしれない。
金継ぎの細い線が血流のように全体にはりめぐらされていったらまた異なる印象になるだろう。
このカップをめぐる冒険が、これからどのように進化してくのか楽しみだ。






2014年4月5日~5月18日
アーツ千代田3331

ポコラート宣言:「純粋」で「切実」な行為や表現が「逸脱」した存在となった時、
私たちは、そこに「芸術」としか言いようのない美しさを感じる。
ポコラートは、障がいの有無・年齢・経験を問わず、その「芸術」を世界に解き放つ。

http://www.3331.jp/schedule/002353.html

見に行きたいと思っている展覧会。
展覧会の内容より、この宣言文に魅了されてしまった。
私が引かれる作品は正に「純粋」で「切実」な行為や表現が作者からはみ出して現れたものなんだとこの文面を読んで気づかされた。


2014年2月15日~5月11日
東京都現代美術館


福田尚代さんの展覧会を見るのはこれが3回目だ。
見るたびに感じる恐れと痛みはどこからくるのだろう。

彼女の作品は、作品自体を鑑賞することが難しい。
作品を味わう前に、制作している姿がまず浮かんでくる。
どのように素材と向き合い、時間をかけて少しずつ手を加えていくのかが頭の中を占めてしまう。
制作中の彼女の姿を想像すると胸が苦しくなってしまう。

展覧会ブログのインタビューのなかで、本のページを折る行為について問われたとき
「本に危害を加えている、と思われるかもしれません。
特に、本が好きな方は、本そのものを大切にする心を持っていらっしゃいます。
でも、私は本を傷つけたいのではなくて、
動機は愛にあると思っています。
愛にはいろいろな種類があるのではないでしょうか。
本と私との間に起きた、私的な事件は、他の人には知りようもないことですが、
私にとってその本と自分との関係は、人との関係くらい強いものです。
本の頁を折るだけでなく、文字の上に刺繍をしたり、
本の頁に針で無数の穴を開けていったりもします。
そういった行為によって、本と私が一体化していくように感じます。
本の中に入っていきます。」
と答えている。

私の感じる恐れや痛み、苦しさは「愛」なのだろうか。

また、こうも語っている。
「作品を見るとき、人は自分が見たいものを見るって言ったらおかしいのかな、
自分自身をそこに発見している、と感じることが多くて。」


この言葉で気が付いた。
私は鑑賞者の側にいるのではなく、折られたり針を刺されたりする頁や、切り取られた原稿用紙の升目の側にいるのだと。

<愛されているのに、なぜ私は無数の針で穴をあけられ光の加減では姿が見えないような仕打ちを受けるのか。
なぜ、骨や煙になるほどに削られ最後には消えてなくなるほどかすかな声しか上げられない存在になってしまうのか。
けれどそんな行為は愛するがゆえなのだ。
私に手をかけている相手も同じくらい命を削っていることを感じる。
純粋な切実さをもって向かい合ってくれていることに感謝して静かに身を横たえる。>

作品の声を聞き取るつもりが、作品自体に感情移入してしまったようだ。


展示についての話をしよう。

福田尚代は展示する場所に合わせて題名や配置を変える。

以前展示した小出由紀子事務所やミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションでは、その場所の持つ固有性が反映されていた。
地霊に反応した題名や展示方法が作品に生気を与えているように思われた。

東京都現代美術館は木場という土地柄、地霊はいるはずなのだが、今回の展覧会場はまさにホワイトキューブ。
無機質な冷たい白い箱に置かれた展示ケースの中で作品たちは息を潜ませていた。

同じ作品が展示方法でこんなに変わってしまうのかと驚き、係の人に尋ねたところ
「作家の方と学芸員の間で展示方法を決めたそうです」
と教えてくれた。
と、すればこれは作家も了解したうえでの変化なのだろうか。

展覧会場に置かれたメモを読まなければ、作家の壮絶な覚悟を見落としてしまうほど、「現代アート」と化してしまった作品たち。
あの展示の仕方では、文具や本を使った作品という完成形が先に来てしまう気がする。
福田尚代が愛した物たちを変容させた(させられた)結果として現れたのが、あれら作品であるように展示してほしかった。