虹の橋を渡った

ワンちゃんとお話をすると

 

必ず

 

ぼくは(わたしは)幸せだった

ママ(パパ)と会えて嬉しかった

ありがとうって伝えてね

 

という返事が返ってくる

 

恨み節を言う子は

まったくいない

 

私のもとに昔いた、

シーズーの大吉と

ミニチュアダックスのチビ吉も

 

 

私に対して

 

ぼくは幸せだった

ぼくはお父さんやお母さんと

一緒にいて楽しかった

ありがとう

 

と言ってくれる

 

そんな彼らの純粋さを感じれば感じるほど

こんな未熟な私にでも

たくさんの愛を教えてくれた

尊い存在であったという思いになり、胸がつまる

 

彼らが10歳を過ぎてからの7、8年間、

毎月、病院に行って

エコーを取ったり

薬を飲ませたりなどの治療もしていたのだから

 

もっと自分の中での意識をもっていれば、

彼らに対して自分はもっといろいろできたはず

 

 

頭の中では

やがて終わりがくることはわかっていたけど

 

彼らが生きていることが

自分にとって日常の当たり前になっていた

 

彼らがいつも寝ていた彼らの部屋

 

ちゃんと寝てるかな、

寒くないかな、

暑くないかな、と

 

夜に起きるたびに

その部屋で寝ている

彼らの様子を見るのが自然と習慣になっていた

 

 

彼らがいなくなっても

つい、彼らの部屋をのぞいて様子を見ようとする自分がいた

 

山の中にあるドッグランに連れて行ったとき

彼らは目を輝かせて、走っていた

 

「大!チビ!」と呼ぶと

ニコニコしながら私のもとに走ってきた大吉

 

 

大吉の後ろを、待ってー、と言わんばかりに

一生懸命走ってくるチビ吉

 

 

「大もチビも呼んだら来るんだなぁ」

と嬉しかった自分

 

大吉やチビ吉がいるのが

当たり前にしか思っていなかった自分

 

ミカンをむいていると

ソファの上からそれを見ていて、飛んできた大吉

 

 

ご飯の準備をしていると

『早く早く』と飛び跳ねて待っていて

ご飯のお皿を手に持つと

イノシシのようにダッシュで部屋に向かうチビ吉

 

 

なんか静かだなぁと思うと

ふたりで静かに悪さをしていて

 

「こら!大、チビ!」なんて言っていた

 

ふたりして

青汁の袋を破いていて

顔の周りを緑色にしていたときも

 

「こら!大、チビ!口の周りが緑色でバレてるぞw」

とやっていた自分

 

 

そんな光景が毎日の当たり前の光景だった

 

今の自分がもし

あの頃に自分に言ってあげることができるならば

 

『大吉やチビ吉と過ごす時間の思い出を

たくさん作ったら良いよ、いずれ終わりを迎えるのだから』

 

ということを助言するだろう

 

 

私が初めて犬と一緒に生活をしたのが彼らだった

 

犬という動物に対する知識も無く

人間の子どもと同じような気持ちで接してしまっていた

 

犬という生き物の特性や習性を

当時の私がもっと知っていたら

彼らが過ごしやすい環境を

もっと提供できたに違いない

 

 

彼らが私にありがとう

という感謝の気持ちを伝えてくれるたびに

 

私の中では彼らに対して

ありがとうという感謝の思いと同時に

自分を責める自分も存在してしまう

 

それが彼らのためではなく、

自分がかわいそうなだけの自分のエゴだとわかっていても

 

彼らに対して

「もっといろいろしてあげられたのに、ごめんね」

という気持ちが

どうしても湧き上がってしまう

 

 

そのたびに

「お父さん、ぼく達にこんなに愛をくれたのに

どうしてそんなに謝るの?

ぼく達はとても幸せだったんだよ、ありがとう」

 

 

という大吉とチビ吉の優しい思いが流れてきて

 

未熟な自分であっても

彼らがいてくれたから

私は愛するということができたこと

 

そして

今の自分が

大きな愛で包まれていることを感じて

 

愛って何ですか?

すべてが愛って本当ですか?

こんな自分でも愛なんですか?

 

など

 

子どものころからずっと疑問に思っていた

これらのことの答えを

 

彼らと過ごしたことによって

少し理解できてきたように思う

 

大吉、チビ吉、ありがとう

君達と出会えて、お父さんもお母さんも幸せでした

 

 

 

大、チビ、

今はお父さんとお母さんのもとには

アポロがいます

 

アポロのことも見守ってあげてね