JR西日本・D51 200号機とJR東日本・D51 498号機の比較!

D51形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計、製造した、

単式2気筒で過熱式テンダー式蒸気機関車です。

主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、ディーゼル機関車電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録した。この記録は現在も更新されていない。

 

現在、動態保存されているD51形蒸気機関車は、JR西日本のD51 200号機とJR東日本のD51 498号機の2両だけが、

動態保存され本線で営業運転を行っている。

JR西日本のD51 200号機とJR東日本のD51 498号機の2両は、同じD51形なので基本的な性能や機能は共通であるが

外観や車暦がそれぞれに所属する、鉄道会社により異なる。

D51 200は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)にて動態保存されている蒸気機関車 (SL) で、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造したD51形蒸気機関車の1両です。

梅小路蒸気機関車館内での動態保存と山口線での営業運転
1938年(昭和13年)9月30日、鉄道省浜松工場にて落成(製造番号 25)。

京都鉄道博物館内の蒸気機関車庫に所属するD51 200号機は「SLスチーム号」を牽引することもある。

 

山口線の津和野駅で機関車の向きを変える、転車台で方向転換。

1938年10月6日に稲沢機関区に新製配置され、1943年3月9日には米原機関区へ、1945年11月27日には大垣機関区、さらに1950年5月10日には中津川機関区へ転属し、中京地区を中心に使用された。その間、米原機関区在籍中の1945年7月29日深夜、連合軍による浜松に対する艦砲射撃があり、この時に本機も戦災を負った(C57 1と違い、機銃掃射による戦災ではない)。翌30日、その修繕のための臨時入場が記録されている。C57 1同様、数少ない第二次世界大戦の傷跡を乗り越えて現代に生きる貴重な車両の一つである。

1972年(昭和47年)10月5日に梅小路機関区へ転属し、梅小路蒸気機関車館にて動態保存を開始した。D51形では一般的なスタイルを持つ量産型の中からも1両を選抜して保存することとなり、保存機選定時に残存していたD51形の中で、状態がよく「200」というキリのいい車番であることから、本機が選ばれた。梅小路機関区転属前の特別整備の際、1968年に長野工場で取り付けた集煙装置(長野工場式)を取り外した。この関係で本機の煙突は通常よりも短くなっている。そして梅小路機関区所属、梅小路蒸気機関車館にて有火可能の動態保存機となっていたが、1979年3月28日に一旦、車籍を抹消(ただし有火保存)された。その後、国鉄分割民営化によりJR西日本に引き継がれた1987年4月1日(国鉄末期の3月という説もある)に車籍復活し、梅小路蒸気機関車館構内にて、同館に所属する8630、C61 2、C62 2と交替で「SLスチーム号」運転を担当していた。ただし、構内運転用としての使用だったため全般検査は受けず、あくまでも「SLスチーム号」として運用ができる程度の整備に留まり、本線運転を行える法的整備基準は満たしていなかった。

梅小路蒸気機関車内での動態保存から本線運転復活へ
長らく「SLスチーム号」用として、梅小路蒸気機関車館の構内運転用に動態保存されていたが、2014年10月17日、JR西日本は、「持続的なSL動態保存の体制の整備」というプレスリリースの中で、本機と同じく梅小路運転区に所属し、本線運転用として動態保存されていたC56 160を置き換えるため、本機の本線運転を復活させることを発表した。これは、「SLやまぐち号」の本務機であるC57 1が2005年から度々受けてきた大規模修繕の時期にC56 160も差し掛かり、検討が進められていたが、C56 160では山口線運転時に3両以上の客車を連結した際にDD51形などの補助機関車(補機)が必要になるため、C57 1と同等またはそれ以上の性能を有し、SLのみで単機運転ができる代替機が必要となったため、また、今後も「SL北びわこ号」として使用するために必要な保安装置ATS-Pを搭載した場合、テンダー機としては10㎥と少ない小形の炭水車の水容量がさらに減少し、航続距離が短くなるため、本線運転自体が困難になってしまうためである。このため、大規模修繕の対象をC56 160から梅小路に収蔵されている本機に変更し、さらに本線運転用の改造を実施したうえでC56 160を置き換えるべく、本線運転を復活させることが決定した。主な用途として、2017年度以降にC56 160を置き換え、C57 1とともに、「SLやまぐち号」・「SL北びわこ号」の牽引機関車として使用される。同年7月には「幕末維新デスティネーションキャンペーン」の一環として、同年11月に山口線で復活運転することが発表され本線現役復活した。

全般検査の施工と試運転の繰り返し
改造後の姿として、外観は梅小路での保存開始当初の姿をテーマに、除煙板周辺の縁取りやボイラーバンドを鉄から真鍮に改めるなど装飾を増やしつつ、そのスタイルを大きく崩さないように配慮して行われ、本線運転にあたり、JR東日本が動態復元したD51 498とは異なり、現役時代同様にボイラー使用圧力は15kgf/㎠ (1470kpa) 、最高運転速度85km/hで使用され、一切のデチューンを施すことなく「現役時代のD51形」と同等の性能を引き出す使用条件を想定して修繕が行われることとなった。本線復活発表後の2014年12月より、梅小路蒸気機関車館内にて本線復活に向けた修繕作業および全般検査が開始され、心臓部であるボイラーがサッパボイラへ搬送された。ボイラーのうち、煙室、火室管板、火室底枠、大煙管、小煙管は腐食のため新造もしくは新品に交換された。火室底枠は本来はリベットで固定しているが、溶接技術の向上とリベット留めができる技術者の減少から溶接に変更され、リベットの飾り鋲を取り付けてカモフラージュしている。修繕されたボイラーは2300kPa水圧検査に合格したのち、2016年1月に梅小路運転区に輸送されている。

 

 

国鉄D51形蒸気機関車498号機

D51 498は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が動態保存する蒸気機関車 (SL) で、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造したD51形蒸気機関車の1両です。

現役時代から保存まで
D51 498は、1940年11月24日に鉄道省鷹取工場にて落成し、鷹取から近い岡山機関区に新製配置された。のちに吹田(1951年8月 - )→平(1953年12月 - )→長岡第一(1963年10月 - )→直江津(1965年4月 - 、配置替えではなく貸し渡し)→新津(1966年3月 - )→坂町(1972年3月 - )と各機関区を転々としていた。先輪は刻印から1955年10月に郡山工場でC58 103の物に交換されたことが分かっている。

なお、新津時代には、同じJR東日本で復元されたC57 180と同時に所属していた時期(本機が新津に配転された1966年からC57 180が廃車された1969年まで)があった。また、のちの1972年に梅小路蒸気機関車館に動態保存され、現在山口線で保存運転を行っているC57 1とも同時に所属していた。このため、1966年から1969年の3年間は奇しくも3台の復活蒸機が同じ所属で活躍していたこととなる。さらにその前の平機関区所属時には、梅小路蒸気機関車館にて動態保存されている8630(1952年12月 - 1970年3月)と、銀河鉄道999のモデルともなったC62 48(1950年8月 - 1967年9月)の2台と同籍しており、当機は多くの名声ある機関車との関わりを持っている。

保存機からの復元以後
国鉄分割民営化後の1987年10月、JR東日本では「地域密着」をテーマに「蒸気機関車を復活して走らせよう」との動きが持ち上がった。折から横浜市の「みなとみらい21」地区で、1989年に開催される「横浜博覧会」の事務局から、品川 - 博覧会会場間をSL列車で運転したいと正式に申し入れがあり、これに間に合わせるためSLの復元計画がJR東日本内で正式に決まった。これにより、関東地方に保存されているさまざまな静態保存機をリストアップし、調査の結果、交通博物館に保存されていたC57 135が一番良く整備され保存状態の良い機関車であることが判明した。JR東日本はこのC57 135の復元を行おうとしたが、SLの代名詞的存在であり、最もポピュラーな「デゴイチ」を走らせることが、地域密着を図るうえで最も効果的であるという当時の社長住田正二の判断によって、C57 135の復元は見送られ、D51形を復元するという方針が決定した。改めて調査を行った結果、茨城県のD51 70とこのD51 498が同形式で最も状態の良かった機関車となった。そしてこの選択では、標準型である当機のスタイルが一番馴染み深く愛されるという理由で498号機が選ばれ、当機の動態復元が決定された。

1988年3月に後閑駅の静態保存場所から復線し、DD51形に牽引され高崎運転所へ、、動態復元に向けた大掛かりな復元工事を11月25日までに完了した。その後、動態保存機として車籍が復活され、同日付で正式に高崎運転所に配属となっている。復元に際し、できるだけ原型に近付けるために前照灯(ヘッドライト)の変更(LP403→LP42)、デフレクターバイパス弁点検口の閉口、キャブ屋根延長部の切除、蒸気ドーム前方手摺りの小型化、テンダー重油タンクの小型化などの工事も行われている。また、ボイラー保護のため使用圧力を所定の15kg/cm2から14kg/cm2に下げて使用されている。運転速度も、メインロッドへの負荷を軽減するため、高崎地区での運用時は50km/hまでを最高運転速度としている。

その後は車籍の再登録が行われ、「JR東日本の顔」として、主に上越線の「SL奥利根号」(後・「SLみなかみ」、現・「SLぐんま みなかみ」)を中心に、様々なイベント臨時列車に起用され、東日本全域で運転されている。特に注目されるものとしては、現役時代の縁の地である新潟地区にもC57 180の代行運転などとしても使用されることがあるなどが挙げられる。また、イベント列車以外でも高崎運転所(現・高崎車両センター高崎支所)構内のほか、「SLぐんま みなかみ」使用区間の上越線高崎 - 水上間や「SL碓氷」・「SLぐんま よこかわ」の信越本線高崎 - 横川間でSL運転士育成のための乗務員訓練運転に使用される機会も多い。

青ナンバープレートと門デフを着想のD51 498号機。門鉄デフを装着は、JR東日本動態保存するC57 180およびD51 498にもオプションで取り付け可能となっている。

JR東日本・D51 498号機は、JR西日本・D51 200号機との外観の大きな違いは、常時「スノーブラウ」を着装している、ヘッドライト2個、着装し、ボイラー台車枠に白線が無いことです。

 

参考資料/Wikipedia

 

by   GIG@NET

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