戦後71年


経験した人達が少なくなりました


遠くになっていく  あの戦争




でも私にとってあの戦争は
私世代とは少し違います



私の家族の話ですが


私の父方の家、父の一番上の兄は
私の母方の祖母の妹と夫婦でした
(昔ですから色々あったんでしょうね)

その夫婦は昭和の初め、満州に渡りました
まだ、戦争初期だったようで、
一度だけ子供2人を連れて里帰りしてます
その時、祖母の妹は 



「姉さん、満州はいいところよ
   お米も野菜もたくさん食べられるよ
   姉さんも満州においでよ」


と、明るく笑っていたそうです



終戦になり
その家族の消息不明になりました

ある日、祖母のところへ中国から
引き揚げで帰ってきた人がきました
小さい箱を持って
その箱には、小さい爪と印鑑


その人が言うには
「妹さんは北京でチフスで亡くなりました」



これしか事実がないのです



では、父の兄と2人の子供は?



わかりません


たぶん父の兄はシベリアで抑留された


2人の子供はわからない





そんなことがあったと知ったのは
私が小学生の頃


父の実家にある四人の笑った顔の肖像画



祖母に
「あの人達、だれ?」と聞き
教えてもらいました


母方の祖母にも聞きました
妹が北京で亡くなったことを



誰も、何が満州であったか

あの家族に何があったか

そして2人の子供、私の従兄弟は?




そして中国残留孤児の調査が始まったとき
祖母は探していたようです


一度だけ、もしかしてという人がいたようです
でも違いました



父はその時私にこういいました


「みつからないほうがいいこともある
   みつかったらみつかったで
   沢山大変なこともある」



こどもながらにこの父の「ことば」は
意外でした




ある日、新聞に
シベリア抑留者名簿が発表されました
 
 
店の仕込みも放り出して
新聞を食い入るように
自分の兄を探してた父の後ろ姿は
忘れることはできません



「みつからないほうがいい」



という「ことば」は本心ではないな

と私は思い、それ以上父には聞きませんでした




父が亡くなり
相続関係でいろんな書類が我が家に一時期
ありました


その中に何故か、父の兄の戸籍謄本が
ありました


みると、ほんと何があったのかという
内容の戸籍謄本



父の兄は日本に居場所がなかった 



と読み取れました
結婚して満州に居場所を求めたのでは?




もう、誰にも聞けない、この話。



赤い夕日の大地で

大地の子

遥かなる絆  

何度か満州開拓団のドラマがありました



開拓団たち  これがいちばん私の心にきます

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このドラマを見たら、
バスタオル一枚分泣きました



もしかしたら




いやたぶん、きっとあの大きな中国の大きな
大地には、私の従兄弟がいて
少しだけ薄いけど、私の血縁者がいる




私にとってのあの戦争は
私が生きてる限り、続いてると思ってます  



そしてこのことを一生忘れてはいけないこと


と、思ってます