祝福の成分。 | blogsan of kenzousan.

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アウトプットの場として。割と自分に酔ってます。

私はスポーツが好きだ。

スポーツをやる事よりも、観る事の方が好きだ。

その理由は感動を与えてくれるとか勇気が出るとか

感情を刺激させてくれるというのももちろんだけど

それ以上に

自分では到底出来ない身体的パフォーマンスを表現している点

自分が達成出来なかった、国を背負って世界と戦うという事を実現させている点

その2点が大きく作用しているように感じる。

自らの憧れを乗せているのだと思う。

そういう意味では真のスポーツ好きという訳ではなく

「トップレベルのスポーツが好き」

という事だと思う。

よって競技スポーツが好きなんだと思う。

生涯スポーツは、どこか私の中でスポーツとは一線を画している気がする。

衣食住とかそっちの方の、もっと生活に近い括り。

私が好きなのは、生活からかけ離れた、異次元と言っても過言では無い

非現実的な括り。

そんなスポーツが好きだ。

ただ、それとは別に私を促す理由もある。

それは友人が出ているということ。

それを応援に行くという事。

至極一般的だけど、そんな理由。

寧ろ、生で観戦するのはそういう理由でしか無い。

友人が戦う姿を会場まで足を運んで生で観る。

自分が大好きな私としては

そこまでの労力を払ってまで観戦に行くということは

相当その友人を信頼し、愛着があり

非現実化した神秘的なものとしているのだと思う。

言うなれば、自慢したくなる友人なんだと思う。

友人の褌で相撲を取りたくなるような

そんな存在なんだと思う。

私は大学生になって

友人の試合を2回だけ観戦した事がある。

1回目は、ア式蹴球部の主務。

同じ主務としてこの1年間本当に色んな感情を共感し続けてきた。

多くは語らないけど、その発言量に対する質は尋常じゃなく高レベルな彼。

自分の理念をぶつけ合い、時に批判し、時に納得し合った彼。

方法は正反対だけど、本質的なポリシーは酷似している彼。

そんな彼の主務としての最終戦、全日本学生選手権を観戦した。

2回目は、スキー部の主将。

体育会としてだけでなく、同じゼミ生としてアカデミックな刺激も与えてくれた。

自分を偽る事無く、感じた事をそのまま表現する彼。

人と違った観点を大切にし、あらゆる方法で本気で世界を目指している彼。

異質の環境に飛び込む勇気、自分を守らない誠実さには、頭が上がらない彼。

そんな彼の学生としての最終戦、全日本選手権を観戦した。

どちらも、最高の結果を残してくれた。

どちらも、最高にエキサイトした。

ただ

どちらも、最高の祝福を届けた

とは言えなかった。

自分にとってのこの2人の違い

それは

「同じフィールドで戦っているか」

という点に集約されていると思う。

同じ主務として、組織を日本一に導こうとする立場。

アスリートとして、自ら日本一を掴み取ろうとする立場。

私にとってのライバルは、どちらだろう。

同じような視点でチームを捉え

同じような喜び、苦悩を味わって

同じような本懐を持っているのは

どちらだろう。

答えは火を見るより明らかで

同じ主務として、同じフィールドで戦う彼の成功を

私は、100%の祝福で迎え入れる事が出来なかった。

嫉妬心、野心、自尊心

無力感、疎外感、自己肯定感

色んな感情が入り交じって

心からの祝福を送れなかった。

いや、感情の成分としては「祝福」がほとんどであった。

でも私は、100%の祝福が出来ると思っていた。思いたかった。

ただ、それが出来なかったという事。

あれだけ信頼し、共感し、刺激し合った仲であったのに

100%にすることが出来なかった。

自分は醜いと感じた。

逆の立場であったら、彼は100%の成分で祝福してくれていたと思う。

それは、お互いの約束事であったように思う。

言葉にはしていないけれど

幾度となく感情を吐露し、ぶつけ合った証として

それは約束、ルール、そして義務であったように思う。

ただ、私はそれが出来なかった。

何を今更そんな事をという感じだけど

スキー部の主将の試合を観戦して、その感情に気付いたから

いや、薄々感じていた事が確信に変わったから

こうして文字におこしてみたくなった。

整理したくなった。

主将の試合は、心から応援した。

そしてその勝利に、心から祝福した。

何の混じりけも無い、純度100%の成分の祝福だった。

でも主務の試合の成分は、95%の祝福だった。

残りの5%は、上記に記した感情が少しずつ混じった

そんな化合的な感情だった。

どうしてここまで自分にこだわるのだろうと感じた。

どうして人と比較してしまうんだろうと思った。

どうして自分なりの評価、ゴールを見つけられないのだろうと思った。

客観的な評価基準を求め

自分と同じフィールドの人間を見極め

その基準を以て自分と比較し、一喜一憂する。

あたかも世界中全ての人がそう思っているかのように

自分を美化したがり、傷つくのを恐れているんだろうと感じた。

人それぞれに価値観は違うし

人それぞれに幸せも違うのに

どうして自分の事になると、割り切る事が出来ないんだろう。

誰もそんな事を求めていないのに

どうして誰かのために、自分は存在していると感じているんだろう。

自分を過剰評価し、サイボーグのように感情を造り上げているのだろう。

もっと優れた人間がいる事は明白なのに

どうしてこんなに、使命感に駆られているんだろう。

どうして祝福ぐらい、100%の成分に出来ないのだろう。

どうしてこんな自分を、変えたいと切望しているのだろう。

親友2人の試合観戦。

親友2人は最高の結果を残してくれた。

私も、心から嬉しかった。

でもそれと同時に、点と点が繋がって

線になった。

繋がって欲しくなかった点が

線になった。

何を目指しているのだろうか。

どうなりたいのだろうか。

それさえも自分で決められないのだろうか。

また自分のことばかり。

今はそういうのはもういいや。

とりあえず、今は祝福したい。

親友の勝利を、祝福したい。

成分は純度100%の、祝福。

今は純度100%。

ずっと100%であって欲しいな。

もう後ろめたさを感じるような

成分になって欲しく無いな。

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