人と人、人と社会の繋がりが無くなって来つつある社会。
そうなれば当然、荒れますね!?
自分本位の生活をしていれば、国家は滅びます。
社会とは、生態系とは「種」を維持するためにあるのであって、個の権利や尊厳を重要視していたら纏まるものも纏まらず、無明の人生を歩むこととなります。
今、この地球上の文明は疲弊しきっております。
人々は金と財産を求め、それに群がり、それが人生の全てであるかのような錯覚をしています。
民主主義と資本主義を是として、それ以外のものを遅れたものとか時代錯誤として拒絶してきた結果が、今の社会を作ってしまったのです。
然し本当は誰しもが、真実は自己の内面が空っぽであることを知っていて、その恐怖から逃れるために外界に救いを求めているのが現状ではないでしょうか?
それは、物や架空の権力、権威なるものに依存してしまい、自分の心が空虚になればなるほどに物を漁り気を晴らしているのではなかろうか。
所有欲や、一時の興奮状態や快楽を求めることで気を紛らわしているのです。
我々人間は本来は「物心両面」に至福(平安)が必要なのであります。
この地球上の文明で、唯一我が国(豊葦原の瑞穂の国)のみがその事を理解していました。
1960年代から、西洋社会が「無」と云うものの重要性に気付き、日本の「禅」に注目し、自らの心の空虚さ、若しくは脆さや弱さを克服するための方法として、当時の若者たちが禅の思想を学び始めた経緯があります。
然しそれでも問題は解決できませんでした。
何故なら、「無」それ自体が「有」に対するアンチテーゼでしかなかったからです。
結局何も変わりませんでした。
生と死、善と悪、光と闇、持つ者と持たざる者…。
それは相対する問題であり、普遍の、無窮の真実とは異なる考え方であったからです。
二元論的世界観に停るものだからです。
真実を知りたければ、覚醒したければ「随神」の教えしかありません。
其処には相対するのもや、相対する概念は一切存在しません。
「明らめる」この言葉の重要性を理解してください。
その教えを伝えているものこそ「随神の道」に他ならないのです。