前回〜 然し、國體の維持のために代々の天皇が努力したにも関わらず、九州地方には続々と渡来する外来人(支那・朝鮮人)があり、日本国内に定住して不逞の輩に伍して反乱をなすが故に、景行天皇以降は、外来人討伐に尽力し、終に仲哀天皇の時世には、外冠を根絶せしめることの由を「広田之大神」の霊示にうたれて、彼の神功皇后の「三韓征伐(服)」となったのです。

 

そして爾後しばらくの間支那も静まり、我が国は朝鮮を属領としたのです。

 

応仁天皇の時世、朝廷に「支那文字(漢字)」が採用されてしまいました。

 

この時から、日本古道(随神)衰退の原因が発したのです。

 

そして、徐々に漸次文弱に流れていき、遂には彼の国の「仏教」を取り入れてしまったのでした。

 

その後、起きた重大な変化は、随神の教えが衰退してゆき、我が国固有の国字は漢字となってしまったことです。

 

日文字(ひふみじ)」は忘れ去られていったのでした。

 

また「厩戸皇子(聖徳太子)」蘇我系(渡来人)は、國紀修撰の名の元に、宮中に秘蔵の「上津古世見(うはつこよみ)」を盗み出して、後に蘇我氏の邸に入り、そして遂に蘇我家は滅んでしまったのでした。

 

天智天皇は、蘇我氏滅亡の時に焼失してしまったこの断片をご覧になられ、國紀の亡滅を知り、各旧家古老の伝記を集めさせて「古事記」を編纂されたのでした。

 

私見ですが、応神天皇の別名を「誉田別尊(ほんたわけのみこと)」と云いますが、第15代天皇として、国家発展のために渡来人(支那・朝鮮人)を登用した張本人です。

 

誉田別尊ではなく「戯け者(たわけもの)」ですよ!

 

国家がおかしくなるはずです。

 

応神天皇


❇八幡信仰の宇佐神宮では、放生という仏教的思想と、殺生の宿命を負った武神としての八幡神。ふたつの相反する概念の融合である放生会は、神仏習合という日本独自の宗教観(本来の日本にはなかった価値観です)が成立する発端になったともいわれています。

 

 

 

 

ー「其の三」に続く