人間の肉体は祖先の遺伝を享けることは明らかであります。

 

更には祖先(や過去世)の精神に障害かあったり、生活形態が「悪」であれば、遺伝する因縁や障害等の原形質も悪である可能性が高い(自現霊のことはこの話では触れない)。


但し、この障害や悪の核が先天的にその儘に進化するのであれば、人間が万物の霊長であると云う事は有り得ないことなのです。

 

何故なら、仏教では「善因善果」、「悪因悪果」の因縁を解くけれど、それは生物の進化と御霊の真理を見誤った解釈に他ならないから、それは「善因」も「悪果」になれば、その逆もあり得るもので、「因」は「縁」により「果」を生ずるのです。

 

人の価値とは、「肉体的な要素」や「貴賤貧富」により定まるものではなく、富貴の家に生まれたものでも徳性を失い人格の墜落した者の多々ある事実がそれを物語ります。

 

このような者の特徴としては、他人を侮り我儘が増長し神経質となって勤勉克己することが出来なくなってしまう傾向にある。

 

そして最大の人の欠点とは、自己の欠点に気が付かないことにあります


良心が多少残っていても非を覚えることがあっても、それを自制し克己心を抱くこと能わず、理由をつけて又は無視してしまうのです。


本来の心の機能とは、人にしか与えられていない貴重なものなのです。


肉体の心に従っている以上はこの無明の世界から抜け出すことは叶いません。

 

人の機能とは常に一定したものに非ず 「言」、「行」、「意」の機能は肉体に直接影響するものなれば、先祖より遺伝分割された原形質もまた、その後の生活様式により変わっていくのです。


これは当に、植物の栽培方法を見れば理解できるであろう。


故に人たる者は克己心と分別を以て自己の行動を律しなければならないのであります。


生れた環境や付与された肉体に宿る宿命を其の儘にし受け入れてしまえば、仏教の説く因縁に縛られた人生を歩むこととなります。


この度の人生は、付与された環境を素直に認め眺めて、其の非なるところを諦めるのでは無く、明らめて克己勉励すれば何事も成す事が可能となるのです。


業や因縁を罪や罰とは考えずに、其の環境から一歩でも良き方向に進むことができる「ヒント」として考えてみてください。


それが今生を生きる、本当の意味でもあるのです。