イタリア生活も18年となった。

どうして私がイタリアに住み着くようになったのかを踏まえながら、これまでの自分の歴史を少しひもといていきたい。

小さい頃、ピンクレディーが大好きで父がよくLP版を買ってきてくれた。片面3分ちょっとしか続かないため、終わると母にその都度「もう1回!!!」とせがんだ記憶がある。よほど好きで聴いていたのだろう。そんな延長線上でたまたまうちに置いてあったおもちゃのピアノを触りだし、4歳でピアノを始めるようになった。
成長していくにつれ、本格的にレッスンも始まった。それと平行して音楽理論、ソルフェージュ、楽典などのレッスンも始まった。
学校プラスレッスン、そして家で最低2時間は練習しなければいけない日々。その当時わたしは大変だと思ったことはなかった。音楽が純粋に好きだったし、何より両親が理解をしてくれたおかげで続けていけることができた。そして自然な形で音楽大学進学という夢を抱いていったのである。
そんな中、私に衝撃を受けた出来事があった。
1990年、チャイコフスキー国際音楽コンクールで当時18歳だった諏訪内晶子さんがバイオリン部門で優勝されたのである。
諏訪内さんはその当時桐朋学園のディプロマコースに在籍されていた。私は地元長野で桐朋学園付属「子供の音楽教室」に通っていたのでとてもみじかに感じたのか、子供心に諏訪内さんの通う桐朋に憧れを抱くようになっていった。
しかし、現実は甘くない。
私の出身地、長野ではピアノは弾ける方ではあったが、全国区で見ると上には上がいて自分の実力のなさに平れ伏した。
桐朋は高校からあり、大学そしてソリストディプロマコースまで併設されており、日本の音楽大学の中ではプロの演奏家を目指すことを目的とする屈指のエリート校である。受験で弾かなければならない課題曲も多く、そして難易度がとても高い。さらに入学定員も少ないのでちょっとやそっとでピアノがひけるくらいでは正直心もとない。
やがて周りの諸先生方の助言もあり、桐朋を諦め、都内の別の音楽大学を受けた。(ここでは簡単に諦めたように書いているが,実際は悔しくて悔しくて何回も泣いた。自分の実力不足も省みようともせず。)
大学に入ってから、音楽に没頭することができる日々を送れるという嬉しさといったらなかった。
そんな中、ある声楽科の学生から試験の伴奏を頼まれた。面白そうだと思い、即引き受けた。
ここから私のイタリアへの足がかりとなったと言っても過言ではない。
声楽科の彼女は、はつらつとイタリアオペラを何曲か歌っていて私もだんだんオペラに興味を覚えた。
そんなある日のこと。
二期会のある先生のツテで、伴奏の仕事で二期会に時々足を運ぶようになっていった。そこで衝撃的な出会いが!!!
当時、リッカルド.ムーティの右腕としてオペラの稽古伴奏者としてミラノスカラ座で活躍していたマエストロ・ピサーニがミラノから起こしになり、声楽の公開レッスンをするというので即見に行かせて頂いた。
先生はオペラの稽古での伴奏が主なお仕事なのだが、歌のこともよく知っておられるので声楽家を主とした公開レッスンだったが時々ピアノ伴奏にも触れてさまざまな助言を入れながらというスタイルだった。
とてもいいレッスンだった。マエストロの奏でる音楽そのものがはるかイタリアからこの日本に乗り移ったかのような錯覚を覚えたのである。
その時、わたしはミラノに行く決心をした。そしてマエストロのレッスンを受けたいと思った。
イタリア語が全く出来なかったが、なんとか身ぶり手ぶりでレッスンを受けることが出来ないかお願いしてみた。
その答えは「NO」だった。
わたしも簡単には引き下がらなかった。(今考えると若気のいたりってやつか。。今さらながら恥ずかしい。)
OKの答えを頂くには時間がかかったが、なんとか承諾していただき、ついに2002年、ミラノへ正式に行くことが決まった。
その後のイタリアでの留学生活はどうなっていくのか、続きはまた明日。。