最近、U-nextとかいう、ネトTVを契約しまして
いわば、ケーブルテレビみたいなもんかしら?
こないだの金曜日、ご機嫌にビールとつまみでダラダラ視聴した中に、〔モンスター〕がありました。
以前からタイトルだけは知っていたんですけどね。
実在する、アイリーンという世間的にはサイコキラーと呼ばれる女性を元にした、ドキュメンタリー的な映画でした。
1889-1990の1年程の間に7人の男性を殺害したとして、死刑執行が行われた人物。
彼女の場合、幼い頃に悲惨な体験をしている。
まぁこのあたりは、猟奇殺人犯的にはよくある話。
特段驚くほどのことでもないかなぁと。
で、お話自体は詳細には記述しませんが
みんくが思うに、これはサイコパスでもシリアルキラーでもなんでもないかなぁと。
生きるために殺人を犯した。ただ、それが7人という人数に繋がってしまったというだけで
確かに、良心の呵責というものはなかったようだけれど
ただ、売春という行為でしか生きていくことが出来ない人間が、
ある日突然、サディスティックな人間に殺されそうになり、その相手を銃殺した。
生きるため売春をし、逆鱗に触れたから殺害した。
ただ、それだけのことだ。
本来のサイコパス、サイコキラーとは別物であると思う。
快楽的要素はどこにも見当たらない。
ある意味で、まだまだ健全な精神であると言えるのではないか?と。
実はアイリーン。とあるbarで、レズの女性に好かれてしまい、そこから転落をしていくことになる。
この女性が、全てのネックであるように思えてならない。
歯車というのは、一体いつ狂うのかは解らない。
まぁこのあたりは映画をご覧戴きたいと思うんだけど。
この一見、気弱で自分では何もできない女性。
男まさりで、口汚く、目的のためなら手段を選ばないアイリーン。
最初こそ、立場はアイリーンが上だったように見受けられるが
そのうちに、このレズの女性が暴走を始めたように思える。
この彼女を失いたくないが故に、アイリーンは強盗殺人を繰り返すようになってしまう。
これはSM的関係にも当てはまることで
最初は俺様サディストが、気がついたらMこに振り回され憔悴しきってしまう。なんてことは、よくある話。
これを否定するサディストというのは多いんだけれど
実際、Mこを失いたくないが為に、気がつけば猫のようになってしまうサディストが9割であるといっても過言ではない。
何故そうなるのか。
それは考えてみれば、どちらが強いわけでも弱いわけでもない。
それは結局、〔御互いへの依存〕から起こる、歪みであるとも言える。
依存は身を滅ぼす。というのは、あたしの口癖ではあるんだけれど
依存関係というのは、御互いがもう抜き差しならない状態になってもなお、
いや、まだなんとかなるのでは?と
ありもしない希望の光を拝むことになるのだ。
一旦距離をおいてみよう、という選択肢すら、死神が鎌を持っているかのように思えるのだ。
前に進むしか方法がないと思い込んでしまう。
その先にはもう、破滅しかない。
双方が破滅することが、SMの目的ではないはず。
だけれども、破滅の道を選ぶ二人のほうが圧倒的に多い。
SMは究極の愛でも、絶対の信頼関係でもない。
ただ特殊な性癖を持ち合わせてしまった者同士の、遊戯の場であるべきなんだ。
ベースは人間として、その上に性癖が乗り、そして男女というものが生まれることもあるかも?しれない。
階層のうちの一つである性癖。
これはかなり頭を痛めるものとなってしまう。
なぜか?
それは本来、サディスト、Mこを名乗るものは
己自身の精神的な脆弱性に目を向けたとき
かたや、相手を嬲り殺したい。
かたや、相手に殺されたい。
という、双方にとっては破滅することでしか成り立たない願望が性癖である、ということに気がつく。
こうやって分析してみると、色々と見えてくることがある。
〔自分がよくわらかないんですよね〕
なんて甘ったれたことを言ってる人間は
何をやっても中途半端なことしかできない。
自分探しの旅()なんてホント馬鹿のすることとしか思えない。
そこまで自分像が崩壊していることが、むしろ心配になるレベルである。
同じく、『私はMなんでしょうか?』
などとほざいている人間は、100%といってもいいほどMではない。
つまりはそういうこと。
では
分析することによって生じるメリットは何か?
それは対策を立てることが出来る。ということ。
傾向と対策とは懐かしい言葉なんだけれど
あれはあながち馬鹿にはできない。
分析ができない人間に、対策は立てられない。
例えてみるなら
S的、M的願望を実現できる相手が出たとして、本当にそれでいいのかと、ハタと足を止めざるを得ない。
どこまで行っても、願望が叶うことはないと、そう言い聞かせるしかないからだ。
代わりの妥協案を見つけたり、グレーの世界をみつけたり
そういった努力も必要となってくるのが、この世界だ。
冷静に分析をする。
するとどこか関係性においても、共依存までは陥ることが少なくなる(であろう
行為は冷静である必要はないんだけれど
関係性というのは、どこか冷静でなければならない。
と、みんくは思っている。
自分自身を探り、分解し、分析する。
その上で見えてきた脆弱性。
その危うさの正面に立つ時
自分自身に責任を持つことができ
相手との関係性を客観視することも出来る。
すると、なんでもかんでもSまかせにしようなんて思わない。
『何かしてもらえるだろう』
なんて、相手に期待をしない。
結局それは、大の字に寝転んで
『さあ、あたし様、俺様を楽しませてくださいよ』
と言ってるに過ぎない。
こういう人は基本的に、無理w
依存性も強いし、結局、では、あなたは私に一体何をしてくれるの?と問うと、答えに窮する。
化身滅智でなくて結構なんだけれど
あなた様を喜ばすために、SMがあるわけではない。と言いたい。笑
御互いが楽しむ。というのは
本来のSとMという立ち位置でない限り、実現なんかするわけがない。
そこでM側に擦り寄ると
結局は、かのアイリーンと、あの彼女のような
歪んだ、もうどうしようもない、自他共に不幸となる関係しか生まれてこないのだ。
この映画を通して思うのは
この二人、出会ったことが不幸だったのか?
いや、そうではない。
出会ったことは幸せであったに違いない。
ただ、舵を取る人間がいない船に乗り込んでしまったということ。
舵を取る人間というのは、自分の目で見、耳で聞き、自分の頭で考える、ということが出来る人間である。
当然のごとく、運命という波に流され
あげくにどうしようもなく座礁をした。
悲しいといえば悲しい話なんだけれど、当然といえば当然だと思う。
大海に漂う木の葉のようなものだ。
SがSであるように、MはMでなければならない。
それは御互いが自律した関係だからこそ
片方ではなく、双方が自己責任に立つからこそ
堂々と叫ぶことの出来ることであると思う。
サディスト君は堂々としろ。
Mこは自由奔放であれ。
ただし、御互い自律した大人であれ。
いやーまじめに書いてしまった。