『守・破・離』
私が剣道を習いはじめたのは8歳の頃。
剣道では面を被る前に、面を固定したり汗止めの役目をする『手ぬぐい』を頭に巻きます。この手拭いには道場開設者の剣を志す理念というものが書かれています。他の道場もいろいろと心に残る文字があったのですが、私の高校の頃の手拭いの文字はというと、
『守・破・離』(シュ・ハ・リ)
どこかで見たり聴いたりする事はあると思いますが、私はこの文字を3年間頭に巻いていました。
これは能楽を確立した世阿弥の教えと聞きました。ニッポンには様々な『道』がありますが、物事を学び始めてから習得し、独立までの段階を表すそうです。芸術や武道の道だけではなく、これは一般にも十分通用する言葉だと思いますので、今回取り上げてみました。
『守』最初の段階では、指導者の教えを守っていきます。
できるだけ多くの話を聞き、指導者の行動を見習って、指導者の価値観をも自分のものにしていきます。 学ぶ人は、すべてを習得できたと感じるまでは、指導者の指導の通りの行動をします。
『破』次の段階では、指導者の教えを守るだけではなく破る行為をしてみます。 自分独自に工夫して、指導者の教えになかった方法を試してみます。
『離』最後の段階では、指導者のもとから離れて、自分自身で学んだ内容を発展させていきます。
あらゆる『道』に限らず、習得~独立というのは身近にあります。当然ながら、最初の『守』を卒業できなければ、次はないのです。最近のニッポン人を見ると、『守』を完結せず、途中から『破』へ勝手に移り、ここで自分なりに悟ってしまうケースが多いと思います。多くは『破』を『離』と勘違いをしているんですね。
人にはそれぞれの道を極めた師につき教えを乞います。師なくして、その道を成就することは難しいのです。今の時代、師(親、先生、目上の人)をないがしろにし、人間関係の縦横の関係は薄れ、なくなりつつあります。師のレベルが低くなったといわれる事もありますが、師事すべき師はいたるところに存在しています。自分の気持ち次第でその師は側にいるようです。与えられた師だけが師ではない。師とは徳を積んだ人ばかりでなく、技量が高い人だけでもありません。また、経済的に余裕のある方でもないのです。思ったより身近にいるのかもしれません。自分を成長させる要素に『師』がいる、いないでは大変差が出てくると思います。
その道を会得しようとなると、その技量や能力以前に礼儀というのを教わります。(教わるものではなく、自分で身につけなければならないもの)国語を習う前にひらがな、カタカナを覚えることと一緒で、礼儀やその修行をする内容に敬愛がなければ修行や修得する意味すらない訳です。時間厳守、稽古への準備、使用する、させてもらうものを大切に扱い、整理整頓を行うことは最低限の事であり、これを守らない場合は道場の中にすら入れてもらえません。年齢が高くなるにつれ、与えられる目標は高くなり自己管理と目標のほかに、後輩の指導と管理が入っていきます。そうすると修行は、本来『個』の成就にもかかわらず、『集団』の成就という形に変わっていきます。しかしこの流れも、修行の一つの形であり、最終的には『個』としての成就である、と思います。
私の愛読するブログoumiclinic様が『滅び逝く日本のこころ』 と題されて連載エッセイを書かれていますが、よく『道』について取り上げられますので、どうしても剣道をしていた頃を思い出してしまいます。思い出しても、当時より身に着けたものはそうそう忘れる事はありません、長い間受けた教えというのは自然に表に出ています。8歳より剣道の教えをいただいた恩師から、大学の恩師まではそれぞれ縦系の人間関係もありましたので、基本的な方針が似ていたことも幸いし、自分の基本が形成されたと思っています。
それぞれ、どなた様にも「道」はありましょうがプラスになることばかりでありマイナスと私は思っています。もし、お子様などがいらっしゃるのであれば何かの道で人生の修行をされるのもよろしいかと思います。家庭内での躾とはまた違います。また、年齢問わず『道』へはどなたでも飛び入り参加はできますので、門をくぐってみられるのもよいのではないでしょうか?
最近、嫁と話しているのが、もう少し時間ができたら一緒に『華道』を習いに行こうという目標を立てています。