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突如としてそびえ立った下町のスカイツリーを、我々がもう、ずっと昔からそこにあったかのように受け入れ、当たり前のものとして捉えている、という不思議。

 

 
ある街角の建物が突如として取り壊されていたときに生じる、「あれ?ここって何があったっけ?」という、あの清々しいまでの忘却と、スカイツリーについての上述の感覚は、まるで正反対のようでいて、その二つはよく似ていると思った。
 
ちょうどコインの裏と表の関係のように、違う側面の同一のものだと。
 
それでも、その足元をもっとずっと昔から流れる隅田川の普遍の流れと対比してみると、スカイツリーの生まれたて感は、また我々の中に、思い出される。
 
隅田川は生まれて間もないスカイツリーをよそに、ただ変わらず悠然と、自分の役目を全うしている。
 
人間がしばしば苦悩する、普遍であることの難しさを、まるで感じさせないがごとく。
 
スカイツリーの上部には、二つの光のリングがくるくると周っているところがある。
 
人工的で且つ生まれたてとはいえ、その二つの光もまた、そのペースを変えることなく、ひたすらに周り続けている。
 
これから先の、そのまた先の未来が続く限り、あの光は下町の空で周り続けるのだろう。
 
遥か夜空の上空ではしゃぎ回るその様は、老熟な隅田川とのコントラストにより、まるでいつまでも大人にならぬ双子の兄弟の、終わらない追いかけっこのようであるなぁと思った。
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本日は、職場のあるみなとみらいで花火大会があるようで、帰る頃には、浴衣をはじめとした夏の衣服を思い思いに身に纏った人でごった返していた。

瑞々しき夏を纏う分子達の創りし川の流れよ。我は黒く重い衣服を身に纏い、その流れに逆らい上流へと航海する者ぞ。

泣いてなんかいないぞ。
これは勤労の汗水の、たまたま目をつたっただけなのだ。

最近、職場で懇意にしていたある人が辞めるという話を聞いた。
そして今日ばったりその人にトイレで会い、その話をした。
なんでも家庭の事情で、北海道に行くらしい。
僕が入ってから何人も人が辞めていったが、この親しかった人が辞めるというのは、少なからず僕にはショックだった。

元来、「惜別」に弱い。
惜別の情を上手に丸めて、引出しの中に仕舞って大切にする器用さを、持ち合わせていない。

神のしくじりだろう。
僕の頭の中の一部に色を塗り忘れたまま、下界に投げよった。

人は移ろい行くものである。
私の人生は私のものであり、彼の人生もまた、彼のものであるのだから。
時には川にそびえる巌が、それぞれの道を分かつこともある。
ある人は川に残り、またある人は海へ出る。

人は移ろい行くものである。
それは人が生きているそれ自体の証である。

今僕の後ろへ流れていく夏の分子達の川もまた、その理に従った正しき姿の一つだろうか。

時には共に花火を見上げるだろう。
時には共に酒を酌み交わすだろう。

ふたつの分子は時として交じり合い、またいつか川の流れとこの世の理に従い、別れ行く。

それが理だといよいよ腑に落ちれば、
世界はきっともっと美しくなろう。

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最近、仕事のことといえば契約書のことばかり考えてる気がする。
 
契約法務に携わり1年ちょっと。
その奥深さを感じています。
弁護士の先生方と話していると、当たり前だけど自らの能力の無さが露わになるし、その感覚のとおり、まだまだ能力足らんけど、少しはマシになってきた。はず。
 
数学者が数式を美しいと感じるように、
契約書にも美しさがある。
言葉の定義、文言の並び、組み立て。それらが秩序だって並べられているものは、美しい。
逆に不協和音を鳴らす箇所がいくつかあると、非常に気持ちが悪い。
 
数学者達の気持ちが、2ミリぐらいはわかったのかもしれない。
 
契約書の文言は、常用表現と比較すればそれはそれは堅苦しくややこしいのだが、取り決めや手続きを全て言葉でバシッと決める契約書という世界においては、あれ以上の簡略化した形は無理。実は最も無駄のないフォルムをしているわけなんです。常用表現から感情を削ぎ落として論理の果汁100パーセントにすると、ああなるんではないかな。
 
但し、そこに深入りし過ぎると、実情から乖離して趣味の世界に入っていってしまうので、ほどほどにしよう。。
 
国語が好きでよかった。
法学部入ってよかった。
 
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終着は、自由が丘。

 

 
昔は、まさかここにそんなにたくさん来るようになるなんて、思ってもみなかったなぁ。
 
大学時代に1、2回来たことがあったけど、その度に過剰にオシャレな通りにいざなわれ、何も出来ずに現実感を喪失したまま常磐線に揺られて帰宅した記憶しかない。
 
あの頃なら、今ごろいそいそと帰路についていなければ、終電すら逃しかねない始末だった。笑
 
人生は、想像もしていなかった事態の連続だ。
宛てのない手紙を詰め込んで海に流したボトルが、ある意思を携えて見知らぬ島に流れ着き、点と点が線として繋がるが如し。
 
人生ってやつは、全てに似ていて、且つ、何物とも違う。
 
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代官山散策終了。
 
残念ながら何もゲットすることなく。
嗚呼、無情なる資本主義よ。。
金の無い者に権利無し。。
 
と、いうわけで、
古着屋が盛んだと噂の祐天寺へ。
 
これがまさに、大当たり。
否、悪魔の甘いさゝやきか。
 
非常に良質な古着屋さんを2つも発見!
 
店員さんも、接客がうますぎる。
セールスしてくるのに、全く嫌味がない。
むしろ、心地よくすらある。
なんだねその全身から放たれるマイナスイオンは。。
 
神様と悪魔が同一人物の中に同居しているのかと思った。
 
店員さんと少し仲良くなりました。
 
置いてあるものも、とても良品ばかりで、しかも定価に比べ格安!
 
しばらく、祐天寺を愛することになりそうです。
 
ちなみにお店は、KATACHI と feets。
メンズがほとんどですが、レディのみなさまも着れるものは充分あるでしょう。
 
今まで見てきたメンズ古着屋の中で個人的には一番良い。
 
なんてこったい祐天寺。
 

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さてさて、代官山散策も終盤です。

もう、サクッとまとめます。

とってもいい街で、また来たいのだけど、、


ここ本当に日本すか? 💦 笑
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代官山を散策中。

 

 
落ち着いていて、大人な感じの街だ。
 
やはり東京は不思議だ。
こんなところが、渋谷からわずか一駅とは思えない。
 
broochもまずまず良かったが、それよりもcarbootsという古着屋が良かった。
 
なんだか、大学時代を思い出した。
あの頃は、こうやって一人で服屋だのレコード屋だのをよく歩いて巡ったものだ。
 
喫煙者の勘で小劇団の建物の喫煙所を探し当て、一服している。🚬
 
背後からは柔らかい音楽と、「よだかの星」のセリフを読む子供の声が聞こえている。
 
代官山。
daikan-yama.
diecann’yama.
悪代官。
 
代官山は、今までの僕には、非常に難所であった。
なにか結界がそこには張られており、君にはまだ早い、と諭されているような。
 
自由が丘とも中目黒とも、銀座ともまた違い、代官山は気難しく、寛容ではなかった。
 
・・・要は、田舎モノの僕が勝手に恐縮していたという、ただの情けないお話なのだが。
 
気難しいのは代官山じゃなくてお前だ。
 
そんな僕も、気づけば27さい。
そろそろいいでしょー?、と、随分勝手に解釈して、代官山へ行くことにした。
 
調べてみると、たったの14分で行けることに驚いた。ち、近い。
改めて結界の強さを思い知る。
いや、結界ではなく自分の歪んだ自意識の強さを。
 

そもそもは、「brooch」というブランド古着のお店に行くためだった。

 
ブランド古着屋で働いている彼女の影響で、前よりも服に関心を持ち、少しばかり知識を分けてもらっていたため、「いい服を安く手に入れたい」という欲求が出てきた。
 
古着というと、渋谷や原宿、下北沢の、ストリート系やアメカジ系の、しかもボロくさいモノのイメージが強かったので、そんなのは学生時代で終わりだと思っていたのだが、そうではなさげなところも代官山にならあるらしい、という情報をネットサーフィンでキャッチし、今に至る。
 
代官山のドレスコードを気にして、
結構気合いを入れてオシャレをしたわたくしが、東横線に揺られている。
 
 

この前久方ぶりに、しかし密かに欲しかったものを、ひょんなことから手に入れた。
 

なんてことはない。
図書カード、である。

 

自分にとって、「図書カード」という存在は面白い。

 

世の中におけるその微妙かつ繊細な立ち位置もさることながら、「図書」に対する、人々の奥底にある愛情に、かなり控えめに、しかし一直線に訴えかけてきているような、そんな魔力のあるカードだからだ。

 

たとえばそれは、誰かにとっては、Amazonギフトカードであったり、JCBのお買い物券であるかもしれない。

 

普通にお金をもらった方が明らかに得なのに、ただ500円をひょいと貰うより、図書カード500円分を貰ったほうが嬉しかったりもするのだから、不思議だ。

 

ある心理学的な実験によると、

 

人は選択肢が多い時、かえって何も選べなくなり、2択などにすると、同じ物を結果的に選ぶにしてもすんなり選べる、らしい。
これは実体験として大いに納得できる。この変なパラドックスが、たぶん誰の中にもある。

 

本しか買えないカード、図書カード。

 

 

 

「本を快く買ってもいいんだよ!」、という少年のように清々しい声が聞こえてくるかのようだ。
 
「本が欲しいんでしょ?だけど生活費とかその他諸々との板挟みに苦しんでるんでしょ?だったら私が、本しか買えない私が、あなたの背中を押してあげるわ。さぁ本を買いに行きなさい。」と、じりじり人の心理に訴えかけて本屋へいざなう、魔性の女性のようだ。

 

なんてこった、図書カード。

 

君がこの世からいつまでも消えずにいるのは、そんな深い趣が人々を魅了してやまないからなのか。

 

そんな恐ろしい魅力を称えたカードをいつまでも持っているのはあまりに危険と本能が判断したのか、気付いたら先程、くだらない本とボールペンに使ってしまっていました。

 

 

なんだか、してやられた感じだ。

 

散々手のひらで転がされたうえに、結局はくだらないものを買ってしまった。
 
図書カード、君を嫌いにはなれない。
またいつか、会いましょう。。

 

 

 

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