当時、父親が神戸市東灘区に住んでいたので、この震災は他人事ではありませんでした。
前夜、なぜかラジオをつけっぱなしで寝てしまっていたため、震災直後の第一報が耳に入り、まさに「寝耳に水」状態で飛び起きました。テレビをつけても、まだ夜が明けてないために暗くて現状がよくわかりません。神戸の家に電話をかけても通じません。夜が明けて、実態が判り始めると、あまりの被害に唖然としました。
 父の安否の確認が取れないので、行ける所まで行ってみようと思い、クルマを出す準備をしていたところに、父からの連絡が入り、ホッと一息。
 自宅が御影の山手側だったため、岩盤がしっかりしていて、倒壊等はなかった模様。
父曰く、地震はテロで何かが爆発したのか?と思ったほどの衝撃だったそうです。
しかし、戦争経験者は逞しく、サイドボードから飛び出し割れたお酒の瓶やグラスを片付けて、会社が大丈夫か?が気になり、スーツを着て出勤。
電車は横転していて動くわけがなく、倒壊している家屋を避けながら歩いて中央区布引町の本社ビルまで行ったそうです。
大阪在住のスタッフの方など、被災を免れた方達の協力でなんとかライフラインの確保は出来たようでした。
 僕は、一週間後、電車が西宮まで行けるようになったので、現地へ。
30キロの荷物を背負って倒壊した家屋の横を6時間歩いて、父の家にたどり着きました。
池に水を汲みにいったり、飲料水を貰いにいったり、自転車を購入して、出来ることを手伝いました。

あれから20年。新聞を読むと、復興住宅が退去期限になって困っている人達が出ているようで、まだまだクリアしなければいけない問題が沢山あります。
地震大国である日本で暮らす我々は、いつ地震が襲って来ても対応出来るような備えをしなければなりません。数年前に防災士の講習を受け、強く実感しました。
今日の日を機に、改めて備えのチェックをしましょう。(防災士 安川健人)