代“宇宙の主をあがめよ” アウグスティヌスの「告白」読書メモ

キリスト教の神や信仰とは何か。初期キリスト教会の最大の教父といわれるアウグスティヌスは、どのように考えていたのか、それを知りたいと思った。
それで、〈アウグスティヌス著 / 告白 / 山田晶訳 / 2014年発行 / 中公文庫〉を読んでいる。
今日から、十四の章でなる第五巻を読み始める。
〈第五巻第一章〉
「告白」の筆を執っているアウグスティヌスの思いが述べられている。
“御身を讃えんために、そのかずかずのあわれみを告白せよ。”
この書は、神への信仰をとりもどし、司教にもなった40歳代前半に書かれている。
神を讃美しつつ、罪深い日々のこと、その日々に思ったこと等が語られている。
〈第五巻第二章〉
神から逃げた者も、神を探し求め、そのひざもとでなぐさめをうける。
アウグスティヌスは、その信仰を語る。
そしてまた、アウグスティヌスは、自分を神から逃げた者としてとらえ、その時、自分はどこにいたのだろうと自問する。
〈第五巻第三章〉
マニ教の司教であるファウストゥスのことが語られてる。
ファウストゥスの弁はたくみであったが、哲学者たちの言の方が勝っていたと。
しかし、哲学者については、次のように言っている。
“・・・・哲学者たちは、宇宙をあれこれせんさくすることはできても、その宇宙の主はけっして発見できない人たちだったのです。”
アウグスティヌスは、このように言っているが、果たしてそうであろうか。
神は、世のあれこれを探究するなかで発見するものでなく、探究しきれない不思議のなかに想定し、存在すると信じることではないだろうか。
私は、哲学者たちが、どのように思っていたがよく知らないが、神なるものを否定はしていなかったのでないか。
“・・・たとえ見いだしても、神を知りながら神としてあがめず、感謝せず、むなしい思いのうちに自己を失い、・・・・”
このようにも言ってけなしているが、何かコンプレックスをもっていたのだろうかとも感じてしまう。いささかなさけない。
マニ教における世のあれこれへの考察、言説は、哲学より劣っていると言っている。