そこはかとなく

そこはかとなく

あれやこれやの断想・・・・・・

“死のための詩” ショスタコーヴィチ「交響曲 No.14」

  ガルシア・ロルカの詩で始まるショスタコーヴィチの「交響曲 No.14」
  第一楽章:デ・プロフンディス(深いところから)〈ロルカ〉
  100の十字架
  恋に死んだ男と女
  とこしえに眠る
 第二楽章:マラゲーニャ〈ロルカ〉
  死が出入りする居酒屋
  通り過ぎる黒い馬
  女の血の臭い
 第三楽章:ローレライ〈アポリネール〉
  うるわしいローレライは言う
  愛するものがなくなりました
  どうぞわたしを死なせてくだい
 このように、十一楽章まで続く。
 取り上げられた詩は、4人の詩。
 〈ハイティンク指揮 / コンセルト・ヘボウ・オーケストラ / DECCA〉で聞く。
 曲は、総じて重く、深く、不気味で、激しい。悲しみも。
 詩の内容より、曲の方が、そのようだ。


 

“神の大慈悲” ヴィヨン遺言詩集

 〈ヴィヨン全詩集 / 鈴木信太郎譯 / 昭和40年発行 / 岩波文庫〉
 古くから本棚にあって、たまに手に取り、拾い読みをしたりしていた。
 しかし先日、その中の“フランソア・ヴィヨン形見の歌”を読んでみて、拾い読みをするものではないことに気づいた。
 長編詩を幾つもの短詩に分けているだけであった。
 こまやかな抒情ではなく、“憤りの祈り”のような内容が魅力的であった。
 それで、続く“ヴィヨン遺言詩集”を読み始めた。
 第20篇まで読んだが、彼を拷問、懲役の罰で苦しめたカトリックの司教への怒りというか、あてつけのような内容である。
 単なる恨み、呪いをこえたものがあっておもしろい。
 彼は、喧嘩で或る司教を殺したり、窃盗事件も起こしたりして投獄もされている。
 罰を受けて当然であるのだろうが、理不尽なこともあったのであろう。
 そう言う人であるだけに、詩に人としての真情がこもっているのがいい。
 彼の信仰観も現れていて、興味深い。
 第十四篇は、次のようだ。
  俺はまさしく罪人だ、それははっきり解つてゐる。
  けれども 神は 俺の死を 望み給はず、
  回心をして 正直に善に生きよと望まれる。
  罪に噛まれる極道の奴とは全く違ふのだ。
  よしんば 俺が罪の中で 死んだとしても、
  神は活く とあるから、神の大慈悲は、
  わが良心が 充分に悔悛してさへゐるならば、
  聖寵により 容赦を俺に興へて下さるのだ。

 鈴木信太郎の譯調が、ヴィヨンにはしっくり合っているようだ。
 

“ローマにおもむく” アウグスティヌスの「告白」読書メモ

 キリスト教の神や信仰とは何か。初期キリスト教会の最大の教父といわれるアウグスティヌスは、どのように考えていたのか、それを知りたいと思った。
 それで、〈アウグスティヌス著 / 告白 / 山田晶訳 / 2014年発行 / 中公文庫〉を読んでいる。
 今日は、十四の章でなる第五巻第八章から。
 〈第五巻第八章〉
 アウグスティヌスは、カルタゴを離れ、ローマにおもむく。
 秩序ある環境で学業にとりくめるからとのことである。
 このことは、神の導きであったと言っている。
 その折、母は私をカルタゴにひきとめようと涙を流したが、私は母を騙すようにしてローマに向かった。
 ここらあたりのアウグスティヌスの言い分、聞き苦しいご都合主義でしかない。
 神をだしにした俗な権威主義とも言えると感じた。
 〈第五巻第九章〉
 アウグスティヌスは、言う。
 私は熱病にかかり、死にかかった。
 私は、それでもまだ神への信仰がなかった。
 母は、とても信仰深く、私のために祈ってくれていた。
 〈第五巻第十章〉
 神は、私に健康をもどしてくださった。
 しかし、私は、傲慢、不敬虔、不義なままだった。
  私は、マニ教徒と結びついたままだった。
 “・・・神について思いめぐらそうとしても、容積のある物体しか考えてみることができませんでした。”
 “・・・善なる神が何か悪い本性のものを創造したなどということはどうしても信ずる気になれませんでした・・・・”
 “・・・神の子が肉によって汚されたと信ぜざるをえなくなることを恐れたからなのです。”
 アウグスティヌスは、当時、このように思っていたと語っている。
 〈第五巻第十一章〉
 マニ教の教えには、疑問を抱いていたが、キリスト教徒の論もたよりないものであった。
 ともかく私は、“物体的なものしか考えられなかった”と言っている。
 

“古風な舞曲とアリア” レスピ-ギの愉悦

 レスピーギは、ローマの音楽院サンタ・チェチーリア国立アカデミアの院長をしていた。
 その頃、図書館にこもり、古い音楽の調査・研究を楽しみとしていたとか。
 気に入った曲が見つかると管弦楽用にアレンジしたりした。
 そうして、出来たひとつが「リュートのための古風な舞曲とアリア」。
 15,16世紀の音楽家の作品をもとに作られたようである。
 ゆったりとしていて、気持を明るくさせてくれる曲である。
 アンタル・ドラティ指揮、フィルカーモニア・フンガリカで聞いた。
 1958年に録音されたもので、フィリップスからのCDで。
 先月、マリナー指揮の盤で聞いたので、今日は別の人でと。
 

“信じれば幸福に” アウグスティヌスの「告白」読書メモ

 キリスト教の神や信仰とは何か。初期キリスト教会の最大の教父といわれるアウグスティヌスは、どのように考えていたのか、それを知りたいと思った。
 それで、〈アウグスティヌス著 / 告白 / 山田晶訳 / 2014年発行 / 中公文庫〉を読んでいる。
 今日は、十四の章でなる第五巻第四章から。
 〈第五巻第四章〉
 ここでは、司教たるアウグスティヌスの神につての解釈、説教である。
 “・・・あなたを知る人は、たとえこれらのことを知らなくとも、幸福です。”
 要するに、宇宙の姿のことや理由などわからなくとも、神を信じる者は幸福であると言うことのようだ。
 そして、“・・・あなたをおろそかにし・・・疑う人がるとすれば、ばか者です。”と。
 〈第五巻第五章〉
 第四章のパターンの続きである。
 “・・・現世的なことは、たとえ知っていても、吹聴するのは虚栄です。”
 “信心とはこれに反し、御前に告白することなのです。”
 マニ教の人は、吹聴するが、そのレベルは低いものであると語る。
 当時、宇宙、天体、自然現象のことが、語り合われていたようである。
 〈第五巻第六章〉
 マニ教の司教であるファウストゥスに会ったことが語られる。
 その言説は魅力あるものであったが、私の渇きを癒やすものではなかったそうだ。
 雄弁であることと真実は異なると。
 ファウストゥスの学識は限られたものしかなく、彼に接することにより、私に嫌悪の情を起こしてくれたのは、神の導きであったと回想している。
 ここらあたり、アウグスティヌスは、自分の学識を吹聴するかのような論法で、それを神への讃美に結びつけている。
 必ずしも、いい印象はもてない。
 〈第五巻第七章〉
 天や星や日や月についてのマニの説には失望したとある。
 ただ、ファウストゥス自身は、自分の知らないことは知らないと素直に言う人であった。
 

“狼は風を啖つて” ヴィヨンの形見

 古くなった文庫本を手に取った
 「ヴィヨン全詩集」
 鈴木信太郎譯の岩波文庫

 “フランソア・ヴィヨン形見の歌”
 40篇でなる
 とりたてて
 こまやかな詩情はない
 ゆえに
 しっくり読める
 心ねじけた女から逃れ旅に出る
 関係各所に形見の品などを贈る
 殺伐とした心情がいい
 譯は語彙豊富で見事
 その二を写しておこうか
  頃しも季は、今まさに
  降誕祭にあたり、満目蕭條、
  狼は 風を啖つて 飢ゑを凌ぎ、
  世の人は 霜を厭うて 家籠り、
  爐の縁に倚る、この時に
  日頃 心を惱ましてゐた
  戀愛の獄舎の韁絆を 絶ち切らうと
  思ふ氣持が 強く浮んだ。



 

“神々と人間ども” いにしえの哲学者たち

 いにしえのギリシアの哲学者たちは、神のことをどうとらえていたのか。
 〈廣川洋一著 / ソクラテス以前の哲学者 / 1997 / 講談社学術文庫〉をめくってみる。
 “著作断片”から、気づいたものをピックアップしてみた。
  神はいますものとして、当然のように語られている。
 神なんていないと言う人はいないかのようだ。
 ただし、彼らの語る神は、キリスト教発祥よりずっと前のものである。
 ちなみに、キリスト教は、ギリシア文化の土台のうえに広まった。
 〈クセノパス〉
 ・一なる神、神々と人間どものうち、最も偉大にして、その姿においても、心においても、死すべき身の者どもにいささかも似ず。
 ・(神は)全体として見、全体として考え、全体として聞く。
 〈ヘラクレイトス〉
 ・神はすなわち、昼夜、冬夏、戦争平和、飽食飢餓。神はさまざまに姿を変える。ちょうど火が香をくべられると、香のそれぞれの持ち味によって(さまざまな名で)呼ばれるように。
 ・人間の本性が真の洞察を持つのでなく、神の本性が持つからだ。
 ・神にとっては、すべてが美しく、善く、正しい。しかし人間は、あるものを不正とみ、他のものを正しいと考えたのだ。
 〈エンペドクレス〉
 ・神のごとき思慮の富を獲た者は幸福である。だが、神々についての晦い思惑(だけ)がその心を領する者は悲惨である。
 ・(神は)ただ神聖で名状しがたい精神として、すみやかな思惟によって、前宇宙(自然万有)を貫き飛ぶ精神としてあるのだ。
 ソクラテス以降であるが、もう一冊ひらいてみた。
 いつも座右にある〈出隆・岩崎允胤訳 / エピクロス / 1959 / 岩波文庫〉である。
 〈エピクロス〉
 ・もし神が人間の祈りをそのまま聴き届けていたならば、人間はすべて、とっくの昔に亡びていたであろう。というのは、人間はたえず、たがいに、多くのむごいことを神に祈ってきているから。
 エピクロスのは、人間に対して、皮肉っぽくておもしろい。
 

代“宇宙の主をあがめよ” アウグスティヌスの「告白」読書メモ

 キリスト教の神や信仰とは何か。初期キリスト教会の最大の教父といわれるアウグスティヌスは、どのように考えていたのか、それを知りたいと思った。
 それで、〈アウグスティヌス著 / 告白 / 山田晶訳 / 2014年発行 / 中公文庫〉を読んでいる。
 今日から、十四の章でなる第五巻を読み始める。
 〈第五巻第一章〉
 「告白」の筆を執っているアウグスティヌスの思いが述べられている。
 “御身を讃えんために、そのかずかずのあわれみを告白せよ。”
 この書は、神への信仰をとりもどし、司教にもなった40歳代前半に書かれている。

 神を讃美しつつ、罪深い日々のこと、その日々に思ったこと等が語られている。
 〈第五巻第二章〉
 神から逃げた者も、神を探し求め、そのひざもとでなぐさめをうける。
 アウグスティヌスは、その信仰を語る。
 そしてまた、アウグスティヌスは、自分を神から逃げた者としてとらえ、その時、自分はどこにいたのだろうと自問する。
 〈第五巻第三章〉
  マニ教の司教であるファウストゥスのことが語られてる。
 ファウストゥスの弁はたくみであったが、哲学者たちの言の方が勝っていたと。
 しかし、哲学者については、次のように言っている。
 “・・・・哲学者たちは、宇宙をあれこれせんさくすることはできても、その宇宙の主はけっして発見できない人たちだったのです。”
 アウグスティヌスは、このように言っているが、果たしてそうであろうか。
 神は、世のあれこれを探究するなかで発見するものでなく、探究しきれない不思議のなかに想定し、存在すると信じることではないだろうか。
 私は、哲学者たちが、どのように思っていたがよく知らないが、神なるものを否定はしていなかったのでないか。
 “・・・たとえ見いだしても、神を知りながら神としてあがめず、感謝せず、むなしい思いのうちに自己を失い、・・・・”
 このようにも言ってけなしているが、何かコンプレックスをもっていたのだろうかとも感じてしまう。いささかなさけない。
 マニ教における世のあれこれへの考察、言説は、哲学より劣っていると言っている。


 

「時間」の屍体 澁澤龍彦の「黄金時代」

 時間や時計について、以下のように書いてあった。
 おそらくその通りであろうし、おもしろいので記した。
 “・・死の終着駅へ向かって、まっしぐらに驀進している急行列車・・・”
 僕たちは、その乗客であると。
 “時間とは、要するに「死」が私たちに告知するものなのである。・・・・”
 “死んだ時計”を好むと。
 “時計とは、飼育された時間みたいなものであろう。”
 “・・どうにかして「時間」の屍体を見たいものだと、ひそかに夢想している・・・”
 以上、〈澁澤龍彦著 / 黄金時代 / 1975年発行 / 出帆社〉の“時間の死滅について”より。
 サルヴァドール・ダリの絵に“柔らかい時計”が描かれてたな。
 あの時計は死んでいるのかな。

“懐かしのストックホルム” チェンバースのベース愛

 昨日、ロン・カーターの「オルフェ」を聞いた。
 きれいでスマートな曲調で、もっとジャージーなものを聞きたくなった。
 ハード・バップにこだわるポール・チェンバースにしようと思った。
 代表的アルバム「ベース・オン・トップ」(1957/BLUE NOTE)を選んだ。
 チェンバースのベース愛あふれた傑作だ。
 “懐かしのストックホルム:DEAR OLD STOCKHOLM”を聞く。
 ケニー・バレルのギターから始まる。
 ピアノはハンク・ジョーンズ、ドラムはアート・テイラーだ。
 安心して聞ける顔ぶれである。
 この曲では、チェンバースはピチカートのみである。
 アルコも聞いてやらねばと、次は“イエスタデーズ”。
 CDプレーヤーの具合が悪かったので、埃の掃除をした。
 ベースの音がよく再生されるようになった。