“イエスタディーズ” ポール・チェンバースの「ベース・オン・トップ」
ポール・チェンバースの「ベース・オン・トップ」(1958 / BLUE NOTE)
ケニー・バレル(g)
ハンク・ジョーンズ(p)
ポール・チェンバース(b)
アート・テイラー(ds)
演奏の顔ぶれもいいし
ベースの魅力あふれた一枚だ
深く沈んだアルコの響きは、ある日の悔恨と歓び
ケニー・バレルのギターがゆたかな色彩をつける
ヴァイオリンとピアノ合奏によるラプソディ「ツィガーヌ」
ラヴェルによる作曲である。
“ツィガーヌ”は、“ロマ”のこと、“ジプシー”である。
ピエール・ドゥカンのヴァイオリン、テレーズ・コシェのピアノで聞いた。
ERATOのCDで。
続けて、ヴァイオリンとオーケストラの協奏によるラプソディ「ツィガーヌ」を聞いた。
アバド指揮、ロンドン交響楽団の演奏、ヴァイオリンは、サルバトーレ・アッカルド。
GramophonのCDで。
ラプソディとしての感情の高揚は、前者の方に強く感じた。
激情が鮮明にあらわれている。
後者は、きれいにまとまりすぎのように。
ラヴェルは、元々は、ヴァイオリンとピアノの曲として作ったようだ。
ラヴェルの魅力が存分に味わえる。
“美しい色艶の像が・・” ルクレーティウス「事物の本性について」
「ルクレーティウス著 / 瀬口昌久訳 / 事物の本性について / 岩波文庫」読書メモ。
第四巻の「序詞」、「シムラークラの存在と本性」、「感覚について」を読み終えた。
今日からは、「生命維持に関わる他の機能」。
この中には、〔食欲〕、〔手足の運動〕、〔眠り〕、〔夢〕の項がある。
〔食欲〕には、身体は食物を求め、摂取することで、食欲が満たされると言うようなことが語られている。
〔手足の運動〕では、運動の像がやってきて、精神を刺激し、運動の意志が生じて、身体を動かすと言うようなこと。
微細な物体でなる風が、大きな船を動かす例が示されている。
〔眠り〕では、こうだ。
魂の力が分散されて、一部が外に放出され、一部が奥深くに退くから、眠りが生じる。
全部が放出されると、起きる力がなくなる。
〔夢〕では、夢のなかにあっても、目覚めていたときの魂のはたらきが続いている。
夜尿や夢精のことが例としてあげられている。
美しい色艶の像がやってくる。
ここらの理解は、確かである自信はない。
次には、「恋愛と性」が語られる。
ステファヌ・マラルメの詩を読んで、一篇だけでも分かった気持ちになりたかった。
同じ詩を何人かの訳で、ゆっくり読めばかなうかと思った。
堀口大學が、「月下の一群」に収めたものにしようと決めた。
氏は、みずから詩をつくるなかで、人が読むことを想定し、人の情を動かし得るものの何かを強く気にかけて選んでいるだろうと。
「月下の一群」にマラルメの詩は三篇あった。
そのうちの“幽霊”を読むことにした。
詩の終わりの部分は、“児なりし日”の夢に現れた情景のことが書かれている。
香しき星くずの花束を雪のごと
そが指のすき間より降らせつつ消え行きし
光明の冠せるかの天女をばいま目の辺り見るにやはあらぬかと。
あたまに光の冠を戴いた天女が、指のあいだから、キラキラ光る星屑を雪のように降らせながら、行き過ぎていくのを見た、と言うようなことかと思う。

比較的最近出版された渡辺守章訳の岩波文庫の「マラルメ詩集」では、同じ詩のタイトルは、“あらわれ”となっている。
同じ部分を見てみる。
通って行った、いつも決まって、軽く握ったその手からは
雪と降らしてくれた、よい薫りのする 星々の 白い花束。
この2行の少し前に、“明るい帽子を被る 妖精”とある。
堀口訳の“児”は、渡辺訳では“少年”となっている。
こうなるか。
明るい帽子を被った妖精が、いつも握り合っていた手から、星々を雪のように降らしながら通って行った、と言うことになるかと思う。
堀口訳を読んでいたので分かったが、言葉の繋がりに意外性がともなうところがあって、その情景をイメージとして捉えにくいところを感じる。
鈴木信太郎訳の岩波文庫「マラルメ詩集」ではどうだろうか。
出てくるのは“少年”と“妖女”である。
タイトルは、“あらはれ”。
渡辺氏は、これに合わせたのだろう。
光の冠いただきて、掌 緩かに握りたる
御手より零るる 香も高き星の素白き花束の
雪降らしつつ過ぎ行きし 妖女を見しと、われは思ひぬ。
光の冠を戴いた妖女が、そっと握った手から、星の白い花束の雪をこぼし降らして過ぎ去っていくのを見た、と言うことになるか。
もし、この鈴木訳だけ読んだら、このように理解できるだろうか。
例えば、“香も高き星の素白き花束”とあるが、この表現は単語の羅列で、トータルにひとつのイメージが極めて描きにくい。
わたしは、フランス語が分からず、原詩がどのようかは知らぬが、このような訳では、詩情がない。
このような訳から、マラルメへのイメージを結んでいいのだろうか。
少しだけ、マラルメへの理解が進んだろうか。
“ケンタウロスの起源” ルクレーティウス「事物の本性について」
「ルクレーティウス著 / 瀬口昌久訳 / 事物の本性について / 岩波文庫」読書メモ。
第四巻の「序詞」、「シムラークラの存在と本性」に続き、今、「感覚について」を読んでいる。
その中の〔視覚とそれに関する諸現象〕、〔視覚の特性〕、〔錯覚〕、〔懐疑主義と感覚の不可謬性〕を読み終えた。
今日は、〔心的イメージに関わる諸問題〕。
イメージは、空気の中でひとりでに発生したり、事物から離れ落ちたり、それらがくっついたりして出来てくる。
ケンタウロスの像は、馬と人間の像が偶然に出会い、接着して出来た。
心は、眼よりも、より希薄なものを見分けられる。
像をなす粒子は大量にあり、動きも迅速で、願望にそって現れたりする。
発生した像は、眠りと忘却が取り払ったりする。
次に、〔余談ー目的論的考えへの批判〕
事物は有用性のために生まれもし、そうでない場合もある。
通常、舌は言葉を話す前からあり、耳は音を聞くより前からあった。
ここでは、このようなことを言っているようである。
この後、大きい見出しの「感覚について」に続き、「生命維持に関わる他の機能」に入る。
「生命維持に関わる他の機能」には、〔食欲〕、〔手足の運動〕、〔眠り〕、〔夢〕の項がある。
“遙かなり聖なる日々” デュリュフレとエピクロス
モーリス・デュリュフレのオルガン曲「プレリュード、アダージョと『来たれ、創り主なる聖霊』によるコラール・ヴァリエーション」をトッド・ウィルソンの演奏で聞きながら。
(モーリス・デュリュフレ / オルガン曲集 / DELOS)
エピクロスの断片のひとつを読んだ。
「もし人間たちの祈りに神がそのまま応じてくれるのであれば、とっくの昔に人間たちはみな滅んでいたであろう、彼らはひっきりなしに互いに関して多くのひどいことを、神に祈っているのだから。(朴一功、和田利博訳)」
エピクロスは、紀元前の人、デュリュフレは、1902年生まれのカトリック教徒。
僕たちは、ひどいことを神に祈ったつもりでなくても、それが残酷な結果をもたすものであることはよくある。
Aの平和は、Bの悲惨
Aの繁栄は、Bの苦難
Aの都合は、Bの不都合
よくあること。よくあるというより、抜け出せない常態。
“風の精” ポール・ヴァレリーの詩情・・・・
昨夜、なにげなく、「ヴァレリー詩集」をひらいた
鈴木信太郎訳の岩波文庫
ここのところ
“水の精:オンディーヌ”の戯曲を読んだり
曲を聞いたりしていた
詩集に“風の精”という詩があったので
“精”に惹かれて読んだ
短い詩ですぐに読めたが
何やら捉えがたいものがある
別の訳をと
堀口大學の「月下の一群」(講談社文芸文庫)で
同じ詩を読んでみた
“風の精”ではなく
“風神”と訳されていた
鈴木訳の以下の部分
見られず 知られず。
偶然か はた 精靈か。
來しと見るまに
忽ち 業(げふ) 成る。
堀口訳では、こうなる
人は見ね 人こそ知らね
偶然かはたは鬼神か
来しと見しそのたまゆらに
業(わざ)ははつる!
そして、この詩の終わりの三行
鈴木訳で
見られず 知られず、
肌著を 著更ふる
裸(あらは)なる乳房の 束の間。
堀口訳で
人は見ね 人こそ知らね
シュミイズを替うるつかのま
あらはなる乳房さながら!
この差をいかが感じられますか
意味のとりやすさ
詩情の伝わり方
読み手への思い
わたしの好みは堀口大學訳