今の仕事をしていると、ふと自分の子供の頃はどうだったかな?という風に思うことがよくある。
この前の保育園児向け教室の時、クラブの倉庫にあったテニスボールの缶のフタを持って行った。
フリスビーのような形をした透明なプラスチックのフタ。
倉庫でこれを見たとき、私が思い出したのは小学生の頃の帰り道の一コマ。

石蹴り。

単純明快。
帰り道が同じ集団の中から鬼を決め、鬼は石を蹴って子に当てなければならない。
当てたら鬼交代。
家に着く時に鬼だと何となくダメというルールだったと思う。
さらに運良くワンカップのフタを拾った時には石蹴りではなくフタ蹴りとなったことを思い出した。

もしかしたらやりたがるかなと思い持って行った。
あえて自分からは言わなかったが、ふと道具の中に見慣れぬものがあることに気がついた一人の男の子。

これ何?

これはな、コーチが子供のころに遊んでた道具に似てるから持ってきたんだ。
蹴るとヒューってキレイに飛ぶんだよ。

蹴ってみるとフリスビーのようにキレイに飛んだ。

真似して蹴る子供。

でもそこから集団遊びに発展することはなかった。


私は帰り道はほとんどのように石蹴りをやっていたような気がする。
石は形が様々で思うようにはいかない。
そこに偶然性があり、楽しかったんだと思う。
それに今思えば、そこで「調整力」みたいなものも学んでいたのだろうなと思う。
こんな遊び、ダッシュで走り去ってしまえば当たる訳がない。
でもそれはしない。
面白くないから。
面白くするには、自分たちで考えて工夫して、楽しいように動かないといけない。
あえて遠くには行かず、ギリギリでよける。
わざと狙わせて避けて、藪の中に石を入れさせることに面白さを感じる。
それに、力加減もたぶん考えていたのだろう。
石は思い切り蹴ると凶器になる。
たぶん私達はそれを知っていた。
だから暗黙的に石は地面を転がるように蹴らなければならない、という風にしていたと思う。
たまに上がってしまって、止めてある車にぶつけてしまったり、くるぶしとか膝に当たって悶絶した気がするけど(笑)

こう書いていると色々思い出す。
石蹴りは校門を出た瞬間に始まるが、その直後が一番楽しい。
学校の前は広かったし、人数が多かった。
やがて一人減り、二人減り、やがて最後の二人になると、自然と石蹴りは終わりになっていたと思う。
あるいはこういう経験から仲間がいることの良さを実感的に学んでいったのかもしれないなと思う。
仲間がいないとつまらないという分かりやすい利害関係。



最近は道路で遊ぶ子はほとんど見かけない。
それはたぶん、社会がそうしたから。
車を優先させ、子どもを閉じ込めた。
ある程度は仕方がないなかもしれないが、私達が経験した面白さはどこで経験しているのだろうかとたまに心配になる。

集団の中での調整・ルール作り・リーダーシップとフォロアーシップ。
そういったものを身につける場は減ってないか。
大人の監視下だけで生きていないか。

本当は教えられなくても勝手に遊びを作っていくのが理想だとは思う。
そこに落ちているもの、そこにある環境を利用して。
でもそれができる子はもうすでにたぶん減っている。
だからこそ、きっかけ作りは大人がしてやらなければならないんだろうなと思う。
次の小学生のプログラムの時に石蹴りをスポーツ化してやってようかな。





ではまた。