引っ越した。
最寄り駅が、三鷹駅から武蔵境駅に変わった。
武蔵境には、三鷹にないものが2つある。
それは、若者と浮浪者である。

三鷹にはほとんど若者がいない。
いわゆる家族層ってやつが多い。
特に僕が住んでいた駅の南側には、大学がないからそうなるんだろう。地価も高いし。
下連雀の豪邸の多いこと!!
だから浮浪者も空気的に居づらいのかもしれない。彼らは空気を読む。

一方武蔵境。
大学が多いから、若者が多い。地価も三鷹駅周辺より安い。
だから大学生のひとり暮らしみたいな人をよく見かけるし、そして浮浪者もいる。


つい最近、浮浪者とすれ違った。
彼は鼻をつんざく恐ろしい臭いを発しながら、ゆっくりゆっくり歩いていた。
元の色がわからないくらいに黒ずんだ服とズボンを履き、靴なのかサンダルなのかスリッパなのかわからなくなったものを履いていた。髪は肩まで伸びていて、パーマがかってパサパサだった。
すれ違うときに彼は言った。
「おい、靴下くれよ」
僕は突然話しかけられたことに驚きながらも、その驚きをまったく表情や声に出さずに言葉を返すことができた。
「靴下?他にほしがるものがあるだろ?」
「いや、おれは靴下がほしいんだ。よく見ろ。俺は服を着て、ズボンを履き、靴を履いているが、靴下は履いていないんだ。だから靴下がほしい」
「そうか。そういうものか。俺なら靴下じゃなく、その臭い服とかズボンとかを脱ぐために、新しいものがほしいけどな。今ないものじゃなく。大体、まだ暑いし靴下はなくても平気だろ」
「お前は何もわかっていない」
「浮浪者のことをか?」
「いや、未来のことだ」
「今は靴下はいらないかもしれない。お前は正しい。今、靴下は、いらない。でもな、すぐに寒くなる。夏の次は秋が来るし、秋の後には冬が来るんだよ」
「そんなの知ってるよ。そうか、寒さへの備えなんだな。靴下は」
「そうだ」
「でも靴下なんて代わりになるものがあるだろ。それこそ靴に新聞紙でも詰め込んで履けば暖かいんじゃないか?」
「それはそうだ。しかし、どうせお前から何かをもらうなら、やはり服でもズボンでもなく、靴下がいい。寒さ対策の理由だけでなく」
「じゃあなんで?」
「消去法だよ」
「消去法?どういうこと?」
「俺がお前からもらえる何か。それはいくつかある。服、ズボン、パンツ、靴下、靴、時計。靴下以外には俺には意味がない。だから靴下がほしいんだ」
「なんで意味がないんだ?役に立ちそうじゃないか」
「服、ズボン、靴。これらは結局またこの状態になるんだ。一時的に新しくなり、臭いはなくなるかもしれない。でも服を替えてもズボンとか髪が臭うからあまり意味がない。服の見た目とか臭いってのは、ほとんどが他人のためのものだろ?俺は他人のためを考える余裕がないし、必要がない。靴も同様だ。壊れてなくて、歩くのに痛くなければいい。だからこのままでいいんだ」
「時計は?時計はいいだろ」
「時計もいらない。まず時計なんて腕につけても仕方ない。邪魔なだけだ。今の時代時計なんてどこにでもある。コンビニにもあるし、町中にある。それに、大体見なくてもわかる」
「でも売れば金になるんじゃないか?それこそ靴下を買えるくらいには」
「こんな汚い俺から買ってくれる人間がどこにいる?」
「そうか。なるほど。わかったよ」
「よかった。じゃあ靴下をくれ」
「あなたはいくつか勘違いをしている。まず、俺はあなたに何も与えない。服も、ズボンも、時計も。夢も希望も与えない。あなたに消去できる選択肢ははじめからない」
「何を!」
「しかしこうして話せて面白かったよ。あなたは前を向いている人だ。下ばかり見て歩く浮浪者とは違う」
「でもね、下を見ないリスクもあるよ。さあ俺の足元をよく見て。俺が履いているのはサンダルだ。靴下はない」
「がーん」
「残念だったな。いい靴下が見つかるといいな」

僕と浮浪者はそのまますれ違い、酸っぱい臭いは薄らいでいった。







嘘だ。



ではまた。