統一地方選挙後に総括もしなかった時点で、ダブル選挙の結果は見えていた、と前回に書いた。

 大阪都構想を超える構想を提唱し、さらに大阪都構想を飲み込んでしまうこと以外に、自民党が生き残る術はなかった。また、生き残る意味もなかった。

 気概も理想もビジョンもなかった。

 それどころか、大阪都構想についてさえ、府連内に統一した政策はなかった。府議団はおおむね了承だが、大阪市議団は大反対だった。

 案の定、ダブル選挙への対応は場当たり的となった。

 大阪維新の会が、松井一郎候補を決定する前の段階で、自民党の推薦候補として、私と親しい丸山和也参議院議員の名前が挙がった。

 丸山氏ならば、大阪都構想を丸呑みして、道州制を見据えた関西ビジョンを共に維新の会にも呼びかけることができるのではないか、と期待した。

 しかし、府連の場当たり的な態度に、一度は出馬を決意しかけた丸山氏は、嫌気がさしてやめてしまった。

 そして府議団は、最後には民主党や自治労と組んで倉田薫池田市長を知事選挙に推薦するという究極の愚挙に出た。
 予想されたが、あきれた対応だった。 

 大阪府知事選挙の告示前に、私の地元の自民党議員団会議が行なわれた。私は「自治労や民主党と組めば、道州制をライフワークにしてきた自分自身の大義が失われる。今回は選挙にはノータッチでいることを了承頂きたい」と、早々に倉田候補の不支持宣言をした。

 私のように倉田候補の不支持を明確に打ち出すかどうかはともかくとして、自民党の支援は実に表層的なものであった。

 所詮、自治労や民主と相容れるわけがなかった。
 だが、ダブル選挙の後も大阪の自民党に変化の兆しはない。 

 ダブル選挙後の最初の会議で、府議団から「(倉田氏という)素晴らしい候補を応援できた」という言葉には、寒いものを感じた。

 もはや、政策よりも好き嫌い、つまり大阪維新の会への憎悪が選挙後も続いているだけだった。
 ダブル選挙は結局、府議団によって決定された結果だった。そうであれば、大阪都に関わる法改正は、国会議員の仕事である。

 この時点で、地方議員の意向に関わらず、大阪都実現のための地方自治法改正をやり遂げようと決心した。

 大阪府連は、自己改革の機会を悉く逸し、今も逸したままである。