兄弟を憎む者はみな、
人殺しです。
あなたがたが
知っているように、
だれでも人を殺す者に、
永遠のいのちがとどまる
ことはありません。
キリストは私たちのために、
ご自分のいのちを
捨ててくださいました。
それによって私たちに
愛が分かったのです。
ですから、
私たちも兄弟のために、
いのちを捨てるべきです。
(第1ヨハネ3:15〜16)
私たちの教会においては、毎週土曜日に聖書を学ぶ会を開催しています。今日も、愛する兄弟姉妹とともに集い、ともに主を礼拝し、
ともに主を賛美し、主の御言葉をいただき、
ともに交わりと証しをし、
とても恵まれました。
今日の学びはヨハネの手紙第一 3章15〜16節
からでした。ハレルヤ*\(^o^)/*
〜みことばの黙想と適用〜
今日のメッセージを通して、『キリストのいのち』について考えさせられました。永遠のいのちはつまり『キリストのいのち』のことです。クリスチャンはみんな『キリストのいのち』を持っています。しかし、兄弟を憎む者はみな人殺しであり、永遠のいのちがとどまることはありません。と、聖書は言っています。逆にいえば、『キリストのいのち』である永遠のいのちが私たちのうちにとどまっているならば、憎しみにとどまり続けることができないのです。いのちというのは当然生きています。キリストのいのちが私たちの中に生きているならば、憎しみにとどまり続けることができるはずがないのです。憎しみを持ち続けるなら、やがて人殺しにまで発展する可能性があります。罪が熟すると死を生む。と、聖書に書いてあるからです。怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはなりません。と、聖書は言っています。また、『キリストのいのち』は教会の中にも息づいています。教会はキリストのからだだからです。教会の中にはキリストの血潮が流れています。そして、そのキリストの血潮は、キリストのからだに属している私たち兄弟姉妹一人ひとりにも流れて来ているのです。つまり、『キリストのいのち』が教会の中にも、教会に属している兄弟姉妹一人ひとりの中にも流れているのです。この『キリストのいのち』は、やがて大いなる川のごとく溢れ出るようになります。キリストは私たちにいのちを得させるためにご自分のいのちをお捨てになられました。ですから、私たちも兄弟のために自分のいのちを捨てるならば、『キリストのいのち』が流れ出るようになるのです。ハレルヤ❣️感謝します💖