人を生かすみことばの力980 『信仰と不信仰の境界線』❣️ 1月28日 主日礼拝にて | 人生のことや受験や子育てのことなど思いつくままに書いてみました

人生のことや受験や子育てのことなど思いつくままに書いてみました

人生山あり谷あり。行き当たりばったり人生の私が直感に従ってあゆんできた「結果オ―ライ」の「転んでもただでは起きない」人生観を思いつくままに書いてみました。でも実はそれは神様の恵みのご計画だったのだと今は感謝しています。

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モーセは手を上げ、
彼の杖で岩を二度打った。
すると、
豊かな水が湧き出たので、
会衆もその家畜も飲んだ。
(民数記20:11)

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牧師室から

   『信仰と不信仰の境界線』      長谷川忠幸牧師

民数記20章1節〜13節


 神を信じる者であるからこそ許せない罪があると思う。それは、罪ある者を慈しむ神の愛を踏みにじる行為である。神から受けた大きな恵みをもって自堕落な生活を選んだり、主に従うよりも死んだほうがましだなどと悪態をつく者を見る時、熱心な信仰者は義憤に駆られることだろう。


 しかしながら、そのような怒りの感情を覚える時にこそ、神への信仰と不信仰の境界線があることを覚える必要がある。神はどのようなお方なのか。それは、神の救いの恵みを台無しにするほどの罪人さえ愛し、慈しむお方なのである。そのことは主イエス・キリストによって明らかにされた。


 私たちは、この主イエスによって顕にされた神を信じる者となりたい。この神を信じるからこそ、私たちはその怒りを支配し、何が救いの道であるか、神の愛をもって示し続けなければならないのである。即ち、私たちの聖なる振る舞いをもって救いの境界線を示し続ける必要がある。


 私たちは、十字架の上でなお神を信頼し、人々の救いを願う主イエスの聖なる光の内に留まり、人々の救いのみを願う者となろう。私たちの聖なる生活が、人々を断罪するものであってはならない。罪びとの救いを愛する主イエスを信じる信仰によって、私たちの聖なる生活が、罪ある者を招き寄せるものとなるよう、今日も新しい信仰を祈り求めよう。


〜みことばの黙想と適用〜

今日の礼拝メッセージを通して、「人の怒りは神の義を実現するものではない」という御言葉が思い出されました。これは信仰熱心なクリスチャンほど気を付けなければいけないです。自分も罪赦された罪びとであるにもかかわらず、神に逆らう者に対して怒りを爆発させてしまうのです。しかし、イエス様は、十字架に架けられたときでさえ、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」と、ご自分を嘲る者たちのために祈られました。私たちも、どこまでも神の愛を示し続けなければなりません。私たちもイエス様に倣って、私たちの生活が清められることによって、罪ある者を招き寄せるものとなるよう更なる信仰を祈り求めたい。

ハレルヤ❣️

主よ、感謝します❤️









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