今年の夏は、夏恒例だった柴田痔痛郎門下生のドイツ文学者関係者の来訪はなかった…。
良かった…。

思い出してみれば私が小学校六年生の時に私の父は
『うちのお父さん』
から
『ドイツ文学者の先生』
になってしまった。
と同時に私たちの運命を紡ぐ私たちの家庭も
『私たちの家』
から
『ドイツ文学者の私物である理想の独文科教室』
になってしまった・・・。
だから小学校の五年生までは、私はデニムショートパンツ穿いてテンガロンハット被って友達と小白川通りの斎藤内科となりの佐藤商店で紫水晶みたいに綺麗でおいしいグレープゼリーを買って食べてはアイドルの歌なんか歌っていた。その斎藤内科前バス停からバスに乗って、そして東原町に下って通称マロニエ通りで降りては頭割り人形バレエ教室や激痛歯科医院に通っていた。ともともマロニエ通りっていうのは日露戦争の時のロシア人捕虜たちがロシア料理やロシア菓子の店を開いていて、異国情緒溢れる町としてゆうろいで、あの当時はまだピロシキやロシアケーキを打っている店があったから、秋の黄昏の中、歯医者やバレエの帰りに頼まれたピロシキやロシアケーキを買っては純喫茶維納の前のバス停からバスに乗れば、バスは東上して東原町を通り、ドレスメーカへ女学院前にとなり、そして小白川一丁目から斎藤内科前に止まってわたしはそこで降りた。斎藤内科の看護婦さんは隣のクラスの女の子のママだった。
それがなんとも幸福な小学校五年生の時の私だ…。あるとき、バレエや歯医者でマロニエ通りに着ていた時、洋子ちゃんにあった。洋子ちゃんは私が物心ついたころに私のいたベビーベットの外で座っていて勉強を習っていた。当時洋子ちゃんは山形北高のJKだったけど、私が緑町の千歳幼稚園に入園したとき(たぶん)仙台の学院大に行ってしまって東原町からは去ってしまった・・しかしその後再び東原町に帰ってきては緑町のМ会館に勤めていていたのだ・・・。
「あ、香織ちゃんじゃない・・・。」
「あ、洋子ちゃん・・・。」
ダージリンティの香りのようなラベンダー色のオーラを待とう洋子ちゃんはトレンチコートに身を包み、本当に大人の女性という感じ…。
私と洋子ちゃんはバスで一緒になり、そしていろんなお話をして楽しかったけど、すぐにバスは『ドレスメーカー女学院前』についてしまう。トレンチコート姿の洋子ちゃんは
「じゃあまたね。」
とシェイクハンドで降りてしまう…。
バスはさらに東上しては小白川一丁目、貯金局(斎藤内科佐藤商店)前で停車、私はここで降りて、そして通称「のんちゃん小路」を通って私の家に・・・。ああまだこの時は「わたしの家」であって「ドイツ文学者の私物である理想の独文科教室」じゃなかった・・・、
「ただいま・・・。」
とお土産のピロシキだかロシアケーキをおいて私はテレビのアニメを見る…。下はデニムショートパンツでも上は可愛らしい女の子っぽいジャンバーだったと思う・・・。
夕食時だってテレビからは流行り歌が流れている…
そろそろ寒くなるから窓にカーテンを閉める・・・。秋の空に鋭く浮かぶ三日月はカーテンの向こうに隠れてしまう…。
その後もテレビではアメリカのSFドラマなんかがやっている。
「宿題しなさい。宿題終わったらココア入れてあげる。」
そんな会話が飛び交う幸福なそして尊いひと時・・・宿題しないで大谷長吉の「フランス菓子の本」を見ていたのが小学校五年の私だったのだ・・・。さっき行ってきたロシアケーキを打っている店と「フランス菓子の本」がオーバーラップする・・・。
「カカオマスでも手に入ればな・・・。」
キッチンにはほとんど使われていない作り付けのガスオーブンがある。
そして子登勢もは早く寝た。赤いパジャマだったかな…。それ着て・・・。たくさんの縫いぐるみと一緒に・・・。
思い出してみればそこに幸福な小宇宙があった・・・。
あの頃私が近所の友達と作っていた縫いぐるみたちの幸福な小宇宙・・・私の心の中のどこかにあの小宇宙に通じる扉があるのだろう・・・。