この作品中には、いわゆる中二病的なキャラの魔法使いがいて、


ニーチェ の「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」という台詞が出てきてたね。


ニーチェ自体すごくこの中二病とは相性が良いんだよね。

大学入試の時に大学の過去問でニーチェに関する考察の本からの出題のがあって、なるほどと思ってちょっと調べてみた時期があったけど、結構面白いね。


ルサンチマン=復讐 でフランス語だったかな。


でニーチェのいうところの ルサンチマンは初発に否定が入る 


ちょっと引用します。



ルサンチマンの哲学 

永井均


定義的にいうと、ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のことだ、といえますが、このルサンチマンという心理現象自体がニーチェの問題だったわけではありません。ルサンチマン自体についても、最後に問題にするつもりではありますけど、ニーチェの問題は、ルサンチマンが創造する力となって価値を産み出すようになったとき、道徳上の奴隷一揆が始まるということであり、そして実際にそうであった、ということなのです。つまり我々はみなこの成功した一揆でつくられた体制の中にいて、それを自明として生きている、ということがポイントなのです。この点を見逃すか無視してしまうと、ニーチェから単なる個人的な人生訓のようなものしか引き出せなくなってしまいます。
 さて、ルサンチマンに基づく創造ということに関してまず注目すべき点は、初発に否定があるという点です。つまり、他なるものに対する【否定から出発する】ということが問題なのです。価値創造が否定から始まる、だからそれは本当は創造ではなく、本質的に価値転倒、価値転換でしかありえないのです。
 狐と葡萄の寓話でいうとこうなります。狐は葡萄に手が届かなかったわけですが、このとき、狐が葡萄をどんなに恨んだとしても、ニーチェ的な意味でのルサンチマンとは関係ありません。ここまでは当然のことなのですが、重要なことは「あれは酸っぱい葡萄だったのだ」と自分に言い聞かせて自分をごまかしたとしても、それでもまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとはいえない、ということです。狐の中に「甘いものを食べない生き方こそがよい生き方だ」といった、自己を正当化するための転倒した価値意識が生まれたとき、狐ははじめて、ニーチェが問題にする意味でルサンチマンに陥ったといえます。(「星の銀貨」のもつ特別な価値も、この観点から理解すべきです。)


 星の銀貨はグリム童話なんだけど、このあたりの話はこの本の肝なので興味あれば読んでみることをおすすめします。哲学書としてはとても読みやすいし。


で、深淵~の話ですが、 まぁ意味は余り重要ではないかも。解釈はいろいろあるのですが、哲学なんて自分の思ったもの勝ちみたいな部分があるし。

 要はかっこいいからで十分。

最近は「ツァラトゥストラかく語りき」が「ツァラトゥストラはこう語った」になってるみたいだけど、いやいや


 かっこよくないよ。