冬が明けた。
桜が今年もちゃんと咲いた。
世の中動いていて、生きものたちの悲鳴はもう聴こえないくらいになったけれど、
戦争が起きてディストピアになった現在もあったとすれば、
桜がちゃんと咲いてくれる現在に居れて、とりあえずはよかった。
冬だとか春だとか関係なくぼくにとって最近は、ずっと夏だ。
日中は汗をかきながら走り、夜は満点の星に見守られて眠る。
時折夜中に起きてキャンプファイヤーを見に行くと、見るたびに炎は大きく、天に近づいている。
気づけばキャンプ場には、仲間も集まってきたようだ。
この炎が消えたらさいあくだけど、今は特に心配もしてないからよく眠れる。
相も変わらず、蚊にはよく刺される。
蚊も生きもののうちだから、まあ良いんだけどね。
さて、
3月11日。
もう随分経ったとか言っちゃったら不謹慎なのかな。
あのときぼくは、中学2年生。自分ごととは捉えられず、ただ呆然とニュースを見ていた。
ぼくの住む地域では、ぼくが生まれるもうずっと前から巨大地震が来ると言われ続けている。
でも蓋を開けてみたらどうだ。
来ない。
でも、ここ十年。各地で大きな災害が起きた。
ぼくは、ごく稀にくる小さな地震で部屋が揺れるたび、「自分の最後」を覚悟する。
生きていく上でモノが満たされたこの国では、あまり考えない思考ではあるだろう。
災害なんて絶対に来て欲しくないよ。
でも小さな揺れがきて、「最後」を覚悟した日の週は、キャンプの炎が一層燃えさかるのは事実だ。
でもそれ以上に大きな揺れが来たら、キャンプも、仲間も、家族も、全てが奪われるのも事実だ。
あまりにも大きい。
人間は本当にちっぽけで弱い。
戦争でディストピアになる現在。大きな災害が襲う現在。桜がちゃんと咲く現在。
交通事故で亡くなる現在。宝くじが当たる現在。夢が叶う現在。
ぼくたちは絶対に選べない。
でも、絶対に何かが選ばれる。
これを選ぶ者を昔の人は神と呼んだ。
特に日本人は、自然を神としたから個人的に好きな考え方だ。
時代が一つ終わるんだね。
色々あったけれど、ぼくはまだ生かされているよ。
先に昇ったいのち。犠牲になったいのち。誰かを守ったいのち。生かされたいのち。自ら捨てるいのち。生まれるいのち。
「犠牲」
日本にはこんな言い伝えがある。
人間に特に懐いたケモノは、その人間が死の淵に立たされる運命になったとき、代わりにその運命を引き受けることがあるらしい。
ぼくが中学2年生のとき。そうあの頃。
飼っていたモルモット二匹が死んだ。
小学校のとき、学校から引き取った可愛い奴らだった。
「犠牲」
日本にはこんな言い伝えもある。
大昔の人は、一年の終わりに自らの目の前で牛を殺す儀式をしていたらしい。
牛の死に行く姿を見て、一年を悔やみ、心を正したのだとか。
だから、「犠牲」にはどちらも「牛」の文字が刻まれている。
生かされたいのち。
ここまで、何とか生かされたのか。ぼくは。
Time Capsule
未来のぼくへ。
最近ようやく、月が美しさを増してきた。
そういうことだよね。
変化がもっともっと加速する時代になる。
だから、ときには陸を、ときには海を、姿かたちを変え自在に渡っていける人魚になる。
陸を駆け、日本を。海を渡り世界へ。
魚だと揶揄されてもいい。それどころか、調理される前に調理してやるくらいに時代に先手をとっていく。
破壊の後、森は再生し、また川は流れる。
その森の養分を受け止め、ちゃんと人々に伝えていく。
でも、どんなに姿を変えても、信念は変えないでおこう。
生かされたいのちとして、今を必死に生きる。
数多の犠牲を偲び、大切な繋がりに感謝し、
自然に畏敬し、
お前にバトンを渡す。